『講談社文庫版のための解説』
小池真理子

 親しい友人が書いた小説は読むのが気恥ずかしい……そんなふうに言った友達がいる。
 その人は、私が新刊本を送っても、長い間、書棚に飾っておくだけで読もうとせず、書店に私の本が並んでいるのを見ると、嬉しいような恥ずかしいような妙な気持ちになって、遠巻きに眺めながら通り過ぎ、通り過ぎてはまた戻って、ドキドキしてしまうのだという。
 かといって、敬遠している、とか、読みたがらない、というわけではない。それどころか、興味が尽きず、読みたくてたまらず、だからこそ逆に気恥ずかしくなるそうなのである。
 なんだかわかるような気がしないでもない。私の友人の1人に役者がいるのだが、彼が舞台に立った時は客席で観ていてドキドキしたものだった。身内の晴れ舞台を観るような思いだった、と言えばいいのか、気恥ずかしさ、照れくささのあまり正視できなくなって、結局どんなあらすじの舞台劇だったのか、一切、覚えていないのである。
 赤の他人ならば、何も感じないでいられるのに、親しくなればなるほど、その人が生み出した作品、舞台、演奏などに接するのが気恥ずかしくなることがある。不思議だが、人間というものはそんなものなのかもしれない。
 井上夢人の本を読む時も、似たような思いにかられる。なんだか照れくさいなあ、と思いつつ読み進み、読み終えるまで、何故とはなしに落ち着かない感じが続く。とりわけ、小説の主人公がちょっとしたラブシーンを演じてみせたりする場面になると、気恥ずかしさがつのって、思わずその部分だけ流し読みしてしまったりする。
 それもそのはず。井上氏との友人関係も長くなった。年月にすると通算八年という程度だが、井上夫妻がお嬢さんを連れて清里の別荘地に家を建て、東京を引き払った翌年に、私たち夫婦もまた、軽井沢に引っ越した。その″共通体験″が、どうやら絆を深めたらしい。
 一口に「東京を引き払う」と言うが、生活環境はがらりと変わる。
 外国暮らしを始めるほどではないにせよ、サンダル履きで近所のスーパーに買物に行けたような暮らしから、カモシカだのクマだのが出没するような山の中の別荘地に居を移すわけである。我々のような執筆生活者にとって、その環境の激変がプラスと出るか、マイナスと出るか、当人ですらわからない。
 そんな中、真冬は極寒の地となる環境に居を定めた者同志、主に電話で暮らしの細々とした話をし合っているうちに、親しさが増していった。互いの家を行き来することも多くなった。
 東京のホテルなどで行われる文壇関係のパーティーで、気取って顔を合わせるのではなく、床暖房のボイラーの調子が悪いという話だの、凍結路面におけるスタッドレスタイヤの話だの、行方不明になった飼い猫の話だの、ベランダに出ると襲ってくるスズメバチの話だのをしながらの家族ぐるみの友人関係は容易に定着し、だからこそ、と言うべきか、私にとって彼の書く小説は、何か身内の書いたものを読むような気恥ずかしさを伴って、いつまでたってもどこかしら、どぎまぎさせられてしまうのである。

 さて、本書『珊瑚色ラプソディ』は1990年春に集英社文庫で出版された。このたび、改めて講談社文庫に再収録されることになったわけだが、そこには7年の歳月が流れている。
 岡嶋二人が解散宣言をしたのが89年の未だから、井上夢人という作家が誕生してからも、ほぼ同じ年数が経過した計算になる。集英社版における自分の解説文を読みながら、時の流れの速さを改めて感じざるを得ない。
 解散宣言をし、筆名を変えて独自の執筆態勢に入った井上夢人は、『ダレカガナカニイル…』を皮切りに、次々と傑作を発表し始めた。
『ダレカガ……』を執筆中だったころの井上夢人を私は彼の清里の家で何度も見ているのだが、ふつうの作家ならば焦るに違いない時期を悠然と構えていた、という印象であった。岡嶋の名を捨て、井上夢人という名で新人作家としてデビューするようなものだったし、事実、そうだったのだが、彼は焦らず慌てず、しかも少しでもいいものを、と眼差しを高くして、まわりに振り回されずにこつこつと執筆を続けていた。
 あれは苦難の時期だった、と彼自身、後で回想してはいるが、傍目にはちっともそうは見えなかった。同じ物書きとして、あの時期の彼の凛とした姿勢は、妙に強く印象に残っている。『ダレカガ……』があれだけの傑作になり、多くの新しい愛読者を獲得した記念すべき"デビュー作"になったのも当然だったろう。
 井上夢人の作品には、常に或る新しさが垣間見える。ありふれた仕掛け、手垢のついたような退屈な罠はまず見当たらない。
 にもかかわらず、彼の書くものには、読者が容易にあとをついていけるような日常の風景が横溢している。そこにストーリーテラーとしての才能が加わるわけだから、読者が増えていくのもうなずけるというものだ。
 岡嶋時代の作品である本書『珊瑚色ラプソディ』にしても同様である。
 架空に設定された沖縄の離島を舞台に、周囲の人間全員が嘘をついている、という異様な状況の中に主人公を放り込ませ、愛する婚約者との絡みの中で物語をリズミカルに進めていく手法は、現在の井上夢人に通じるエッセンスをはらんでいて興味深い。
 どこに行っても人があふれている日本では、或る特定の地域の特殊な閉鎖性をテーマに何か書こうとしても、現実的に難しいことが多い。だが、本書では、人口33人の離島を舞台にすることで、その点も軽くクリアされている。辻褄を合わせるために、現実離れした設定にしてしまいがちな話を、あたかも実際に起こったような日常風景の中に描いてみせるのは、岡嶋時代からの井上氏の得意技でもあった。
 聞けば、井上夢人は現在、パソコンを使ってインターネット小説を執筆中であるという。
99人の最終電車』というタイトルで、完成されれば4千枚以上の大長編になるらしい。
 この春、やっとわが家でもパソコンをそろえたのだが、先日、くだんの井上夢人の小説をパソコンの画面で読んでみて、やっぱり、どこか嬉しいような、恥ずかしいような気持ちにかられた。いつになったら、この「清里=軽井沢チーム」としての身内意識が薄れてくれるのか、ずっと続いてますます烈しくなる一方なのか、いやはや、これこそ嬉し恥ずかし、困った話ではある。

(1997年6月)