『解説』
小池真理子

 もう今更、こんなことは言うまでもないのだけれど、岡嶋二人というのは、2名の合作によるペンネームである。この、一見、奇抜なペンネームが、映画のタイトル「おかしな二人」をもじったものであることを知っている人も少なくないだろう。
 岡嶋二人……実にいいペンネームである。第一、覚えやすい。いかにも作家です、と言わんばかりのギスギスした感じもしないし、「二人」という名前は、なんとも微笑ましく、素敵だ。
 お二人の本名は徳山諄一、井上泉……という。もしも私が彼らの立場だったら、「徳山泉」とか「井上諄一」とか、さらにシャッフルさせて「徳上泉一」などというペンネームを考えて、「なんだかピンとこないなあ」とボヤいていただろうと思う。こんな素敵な洒落たペンネームを思いつくあたり、彼らの遊び心の豊かさ、発想の奔放さがしのばれるというものだ。岡嶋二人氏は昭和57年に『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞し、華やかな作家デビューを飾った。ミステリ小説としての完成度の高さは言うまでもなく、彼らが2人のチームを組んで1つのすぐれたミステリを書き上げたということで、世間の彼らに対する注目度は非常に高かったと思う。
 それまで、日本では合作によるミステリが今ひとつ評価されにくかった。海外に目を転じれば、エラリー・クィーンをはじめ、パトリック・クェンティン、ボワロ&ナルスジャック、マイ・シューヴアル&ヴァールーなど、多くのすぐれた合作作家がいて、世界的な評価を博していたのに、何故、わが国だけが……という疑問は今でも残る。日本では、書くという行為が、あくまでも孤独な知的作業・本に囲まれた書斎で原稿用紙を前に、たった一人、悶々とする孤独な戦い……としてだけ、とらえられてきたせいもあるのかもしれない。
 実は私は何度か、「ミステリの合作は現実問題として難しいのではないか」という意見を聞いたことがある。むろん岡嶋氏が乱歩賞を受賞する前のことだ。アイデアを練る側と書く側……という2つの役割分担がよほどうまくいかないと、合作はうまくいかないし、第一、長続きしないだろう、というのが大方の意見だった。
 海外における合作ミステリ作家の作品を高く評価している人に限って、そんなことをのたまっていたものだ。ニッポン人ってのは、どうしてこう、発想が保守的で貧弱なんだろう、と残念に思ったことを記憶している。
 いわゆる一般小説ならいざ知らず、ミステリというジャンルでは、複数の人間のアイデアを結集したほうが、より大きな効果をあげる場合がある。どれほど高性能の頭脳の持主とて、コンピューターのように次から次へと斬新なアイデアを編み出していくことは不可能だ。生身の人間が考えることには限界がある。複数の知恵を集めたほうが、より面白いミステリが出来上がるし、それにチャレンジする作家が出現するのは当然のなりゆきだったろう。
 岡嶋氏の登場は、その意味でも日本ミステリ界に一石を投じた。多くの人が「合作ミステリは長続きしないのではないか」と半信半疑でいた時代に、彼らは難なくそうした神話をクリアしてくれた。長続きしないどころか、彼らのその後の執筆活動は小気味いいほど精力的だ。もう誰も「ミステリの合作はうまくいかないのでは」などという寝言は言わなくなった。今一度、声を大にして言いたいのだけれど、岡嶋二人氏の残した功績は、本当に大きいのである。
 岡嶋二人氏の作品には、どちらかというとゲーム性の強いものが多い。井上泉氏がパソコン青年(中年?)だからということもあるのだろうが、趣味をそのまま生かしながら、ごく自然にストーリーを展開させているあたり、そちらの方面の知識が皆無である私など、ひたすら羨ましくもある。
 1989年に吉川英治新人文学賞を受賞した『99%の誘拐』にいたっては、現代科学についていけない原始人みたいな私からすれば、どこからこんなアイデアが出てくるんだろう、と溜め息をつくのみだ。彼らの幅ひろい趣味と知識は、素直に無理なく作品に生かされており、こんな言い方はおかしいかもしれないけれど、岡嶋二人という作家は実に幸せな作家だという気がする。作家自身が、楽しんで書いた跡が見えるからだ。作家が楽しんで書いたものは、読者も素直に楽しめる。彼らは根っからのエンターテイナーなのかもしれない。
 さて本書『珊瑚色ラプソディ』だが、ジャンルで言えば、サスペンスということになろうか。岡嶋氏は、数少ないがハラハラドキドキを堪能させてくれるサスペンスも時々、発表しており、怖い怖い殺人鬼が登場する『クリスマス・イヴ』などはその代表だろう(蛇足ながら、私はすごくこの作品が好きです)。
 本書はいわゆるパニックものではなく、ニュートラルなタッチで描かれる典型的なサスペンスである。一人称で書かれているせいか、心理描写もふんだんにあり、読者は主人公に感情移入しながら、謎に挑戦していく形になっている。
 主人公が徐々に追いつめられ、それを打破していく過程が中心となって描かれるわけだが、作品の中に漂う、一種の天衣無縫の明るさは、いかにも岡嶋氏らしいものだ。読み手の神経や生理を逆撫でせずに、リズミカルにサスペンスをもりたて、エンディングまでひと思いにストーリーを運んでいき、ラストで読者を暖かい気持ちにさせる……そんなミステリと言っていいだろう。
 サスペンスというと、闇、残酷、陰気さ、不幸な結末……などといったものを好んで描きたがる私とはえらい違いで、こういう明るいサスペンスを読むと、書き手の一人として、いささかわが身の不徳、性格のねじれを恥じるところがある。
 そう言えば、徳山氏、井上氏は、実際にお目にかかっても、とてもさわやかで素敵な男性だ。徳山氏とは某パーティー会場で挨拶を交わしただけだが、そこにいるだけで、なんだか春の風が吹いているみたいな、暖かな印象を与える方であった。しかも、春の風といっても、都会の真ん中をこれみよがしにチャラチャラと吹きぬける風ではない。たとえて言えば、人里離れた山の中に吹く春風……芽吹いた木々の間をそっと通り抜けていくような山の春風……であり、徳山氏がアウトドア派だということを後で知って、なるほど、と思ったものだ。
 井上氏のほうは、インドア派。あれだけ機械に強いはずなのに、未だに車の免許を持っていないというところが微笑ましい。
 彼は現在、奥様とお嬢さんと3人で清里高原に住んでいる。遊びに行く機会があって、お宅にお邪魔したこともあったのだが、「ビーちゃん」という名前の母猫とその子供たちが遊びまわる、賑やかな明るいお宅であった。
 徳山氏、井上氏ご両人の人柄が、作風に反映されているのは言うまでもない。岡嶋二人の作る世界に、ある種の真っ直ぐな明るさを感じるのは多分、私だけではないだろう。
 井上氏の書斎を見せてもらった時のこと。質問を発する絶好のチャンスだと思った私は、彼に、どうやって徳山氏と執筆の役割分担をしているの? と質問してみた。これまで何百回となく人から質問されたことだろうと思うが、その点に関しては、やはり同業者としても気になるところだ。
 井上氏からは、「場合によりけりでね」「いろいろなんだよ」……確か、そんな言葉が返ってきたと思う。答え方としては、曖昧だが、なかなか鋭い。これではさらに突っ込んだ質問はできなくなる。やはり、彼らの共同執筆については、永遠のミステリとして読者が勝手に想像し、楽しむほうがいいらしい。
 その岡嶋二人氏は、1989年末に、解散宣言を行った。『クラインの壺』を上梓した後のことだ。
 解散の噂はその数ケ月前から耳に入ってきていた。噂はどこか底抜けに明るいもの……なんだか人気ミュージシャンが解散して独立し、独自の音楽活動をする時のような、そんな楽しいワクワクする雰囲気を漂わせていたように思う。ああ、やっぱり2人はダメだったのか、などという悲観的な感想が一つも耳に入ってこなかったあたり、これまたいかにも岡嶋二人らしい。
 岡嶋二人は、共同執筆作家として十二分に活躍し、その役割を完璧に果たした。現時点における解散で、岡嶋二人が残した功績はそれぞれ互いに受け継がれ、さらに新しい小説分野を拡げていくステップになるのだと思う。
 解散後、井上泉氏のほうは、"井上夢人(ゆめひと)"と名前を変えて、早速、ミステリを書き始めている。徳山氏のほうも、執筆を開始しているそうだから、いずれ近いうちに、あっと驚く作品を発表してくれるだろう。
 それにしても、しつこいようだが、かつての岡嶋二人がどのように役割分担をしていたのか、やはり気にかかる。井上さん、徳山さん、いずれ『岡嶋二人、三十の謎』とでも題して、岡嶋二人の作家活動の秘密を探る痛快なミステリを書いてください。
 たとえば、舞台は、そう、清里あたりがいいでしょうか。いや、清里の中心部は原宿みたいで騒々しいから、少しはずれた山のふもとにしましょう。そこに洋館がある。古びた洋館のほうが趣があるかもしれません。その洋館の2階には、蜘蛛の巣が張った陰気な書斎があって、2台のタイプライターが並べられている。2人の作家がそこで仕事をし、共に生活しているんですね。ところが、その洋館では深夜、壁の中から不思議な囁き声がする。実は2人の作家のうちの1人は、壁の中の声に過ぎなかったのです。もう1人は次第に『シャイニング』の中のジャック・ニコルソンみたいに気が変になっていき……ああ、いけない、いけない。私が考えると、やっぱりおどろおどろしい陰気ホラーサスペンスになってしまう。やはり岡嶋ご両人に任せたほうがよさそうです。