『解説』
香山二三郎

 誘拐は成功率の低い犯罪である。その事実は事件が起きるたびにマスコミで報じられているのだが、にもかかわらず後を絶つ気配を見せない。いや、後を絶つどころか逆に増えているのだ。昭和20年代には年平均0.6件だった発生件数は40年代には3.4件と増え、50年代に至っては7.1件と激増、60年代に入ってもこのペースは衰えていない。被害者の6割近くが小学生以下の子供であること、犯行の動機の大半が借金苦であることなどを考えると、半ば発作的に犯行に走る犯人たちの姿が浮かび上がってくるが、それにしても、金目当てなら他にいくらでも方法があるのに、人はいったい何故、誘拐に駆り立てられるのだろうか。
 その答えは、他の犯罪と比較してみると自ずと明らかになろう。たとえば強盗の場合、襲撃と現金奪取が同じ現場で同時に行われるのが通例である。現場でどんな不測の事態が生じるかはわからないが、ひとたび犯行に及べば、即、現金奪取につながる。いっぽう、誘拐事件では人質をとったからといって、犯人はその場で金が得られるわけではない。身代金を得るには、被害者側との新たな交渉が必要になる。だが、現場で多くの危険に晒される強盗に比べれば、子供をさらうことそれ自体は遥かに楽で安全な犯罪行為といえる。
 誘拐犯のほとんどが素人の犯罪者であることを考えると、彼らがそうしたとっつきやすさに魅入られてしまうのであろうことは想像に難くない。そして、そのとっつきやすさこそが、人を誘拐に駆り立てる最大の動因なのではあるまいか。
 もっとも、誘拐犯の多くがそのとっつきやすさに魅せられたとするなら、ミステリー作家もまた同類といわずばなるまい。ただ、彼らは犯罪の手口に魅せられるわけではなく、誘拐犯罪それ自体がすでにひとつの物語として成立していることに魅せられるのだが。誘拐――身代金の交渉――金の受け渡し――人質の解放といった誘拐犯罪のプロセスがそのまま物語の起承転結と重なり合い、それをなぞるだけで自ずとサスペンスも生じてくるとなれば、確かにそれも無理からぬことではあろう。
 岡嶋二人(徳山諄一&井上泉)はその点、次のように語っている。

徳山 わりとね、誘拐はアイデアの歩留まりがいいんだよ。これは面白さがある程度わかってるっていうか、誘拐というジャンルがあることはもうみんな知ってるわけね。それをあえて取り出すということは、単に「誘拐をやろう」じやなくて、「こういう誘拐はどうだ?」ってわりと具体的に出てくる場合が多いのね」
(対談「岡嶋二人ひとりずつ」小説現代臨時増刊 バイオレンス&エロス特集号掲載)

 この徳山氏の言葉には、ふたつの意味合いがある。ひとつは、誘拐犯罪をなぞった小説は、読者の間でもすでに定番になっているということ。もうひとつは、岡嶋二人の誘拐ものはそうした誘拐小説の枠組みを逸脱するところから出発しているということである。相棒の井上泉氏も徳山氏の言葉を受け、さらに次のように語っている。

井上 前に使った手とかなんかじや、自分らが面白くもなんともない。だから必然的に新しい要素が入ってこないと仕上がらないし。

 つまり誘拐小説はとっつきやすいジャンルには違いないが、岡嶋二人は「新しい要素が入ってこない」限り、作品にはしないということだ。岡嶋二人が並並ならぬプロ根性の持ち主であることは、その言葉からも明らかであろう。現に、競馬界を舞台に狂言誘拐の顛末を描いた実質上の処女作『あした天気にしておくれ』(講談社文庫)以降、ふたりは手を変え品を変え、誘拐サスペンスに挑戦し続けてきた。ボクシングの世界戦をめぐつて起こる非営利誘拐事件を描いた『タイトルマッチ』(徳間文庫)にしても、タレントの誘拐事件を身代金の受け渡しに趣向を凝らして描いた『どんなに上手に隠れても』(同)にしても、氏は新作ごとに新たな趣向を打ち出して、われわれ読者を楽しませてくれた。
 むろん、本書においても、氏のそうした職人気質は遺憾なく発揮されている。冒頭、ふたりの大人の男が誘拐・監禁されているビデオ画像が映し出されるや、物語はそのまま身代金の受け渡しへとなだれ込んでいく。いわば、本来物語の転換部となるべきシークエンスから本書は幕を開けるのである。しかも、受け渡し現場で二重三重の謎が提示されることになる。本書に追跡サスペンスを期待されたかたは、この序盤の展開からして、まずドギモを抜かれることだろう。他の誘拐小説ならば、身代金の受け渡しを山場にあくまで追跡サスペンスで攻めてくるところだろうが、著者はあえてその流れを止めてしまうのだ。
 では、追跡サスペンスの代わりに著者が凝らした趣向とは何か。本格謎解きトリックである。受け渡し現場となった差し渡し50メートルほどの丸い小島には大きな岩が転がっているだけで、身を隠すような建造物は一切ない。島の回りに植えられた樹木が壁となって見通しを遮ってはいるが、事件当時、島は警察に包囲されていて犯人が出入するスキはなかった。では、いったい犯人はどうやって受け渡し人を狙撃したのか、はたまた2千万円の身代金はどうやって運び去ったのか、さらにまた、事件の後、島に入ったまま行方不明となったウエイターはどこに消えてしまったのか……。
 本書は「週刊小説」誌の昭和60年11月22日号から翌61年2月21日号に渡って連載された後、昭和61年6月に実業之日本社から刊行されたが、著者は連載に当たって「推理小説上に描かれる誘拐は、知的ゲームでなければならないと考えている」と語っている。通常の誘拐小説なら、そうした「知的ゲーム」性は身代金の受け渡し場面における犯人と捜査陣との虚々実実の駆け引きに立ち現れるのだが、著者はその駆け引きを犯人が仕掛けた密室トリックに集約したといっても過言ではあるまい。その意味では、本書はいわば誘拐パズラーとでもいうべき謎解きの興で読ませる作品なのだ。
 警察vs犯人という誘拐小説の一般的な対立構図に交じって、謎を解くべき"名探偵"が登場するのも、従って本書の読みどころのひとつというべきだろう。著者はそこでも洒落た設定を心がけるのを忘れてはいない。探偵役を演じる歌手の近石千秋とピアニストの槻代要之助は友情とも恋愛ともつかぬ半端な絆で結ばれているが、その関係も事件に関わっていくうちに微妙に変化していくことになる。いや、それをいうなら、事件の中心となる鳥羽家の人々の恋愛模様が物語に大きな興を添えている点も見逃してはなるまい。
 著者は本書の後、時代を隔てて起きるふたつの誘拐事件の結末を大胆な着想を駆使して描いた『99%の誘拐』(徳間書店)で、誘拐小説のスペシャリストとしての面目を躍如させたが、本書はそうした一連の誘拐ものの中でも、他と装いを異にする作品として特筆されよう。残念ながら、著者は1989年10月に刊行された『クラインの壺』(新潮社)を最後にコンビを解消したが、おふたりのいずれでもいい、千秋と要之助コンビがもういちど活躍する話を書いていただけたらいうことはないのだが。

 最後に誘拐犯罪の現情についてひと言。
 警察庁によると、戦後発生した身代金目的の誘拐事件は、1989年(平成1)10月、愛知県豊橋市で起きた幼女誘拐殺人事件まで166件を数えるが、同種の事件のこれまでの検挙率は95パーセント以上にのぼり、犯人が身代金を奪ったまま逃げ切った例は1件もない。まさか本書をヒントに誘拐を企てようとする人はいないだろうが、小説をテクストに誘拐計画を練ろうとしている輩がいたら、次のことだけは重ねていっておきたい。
 誘拐は割に合わない犯罪である。

1989年12月