『解説』
末國善己

 
 本格ミステリーと社会派推理は、時に相反するものと理解されてきたように思える。
 しかし、横溝正史『本陣殺人事件』(46)が、昭和十二年を舞台にしながらも、傷痍軍人を思わせる「三本指の男」なる謎の人物を登場させ、GHQによって解体されようとしていた〈旧家〉の悲劇をミステリーの題材にするなど、作中の時代と発表の時代を二重写しにしながら、戦後の世相を活写し、社会性と本格趣向は見事に融合していた。
 また、社会派の代表ともいえる松本清張の作品を考えてみても、アリバイ崩しを扱った『点と線』(57)や、方言を利用したミス・ディレクションや殺人の方法も秀逸だった『砂の器』(61)など、社会性を前面に出しながらも、トリックも秀逸なものも少なくない。社会派=トリックの不在という図式は、社会派が通俗化し、既にミステリーとさえ呼べなくなったような作品に対する批判であったのではないかと思えてしまうほどである。
 権田萬治は、『チョコレートゲーム』講談社文庫版(88・7)「解説」の中で、深谷昌志『放課後の子どもたち』(第三文明社、87・7)の「現代の子どもたちが成人するまで、金銭の使い手、つまり、消費者として生活しているのがわかる。しかも、家庭の生活そのものが、全体としてみると、豊かになってきているので、子どもたちは、金銭の不足を気にかけることなく、消費してゆく。家庭の中に金のなる木でもあるかのように思ったとしても、無理からぬ気がする」と一節を引用したうえで、「『チョコレートゲーム』の事件が起こる時代的背景には、こういうヤングの生活意識の変化があるわけで、作者は前半の部分で見事にこういう実態を浮彫りにしているように思う」と述べている。
 おそらく、この権田萬治の指摘は、的を射たものだろう。そして、作者が『チョコレートゲーム』で描いて見せた子供たちの変容は、発表から20年を経ようとしている現在、ますます加速度がかかっているように思える。娘の長電話を嘆く刑事の「この頃の子供たちは、なんでもかんでも、すべて電話ですよ」という言葉は、携帯電話の(ブームという言葉を越えた)一般化を先駆けたような指摘であるし、子供部屋が親の知らない聖域となっていることや、個室が聖域になることで、家族関係が断絶してしまうことも、今では当たり前のように語られるようになった。この作品は、特に子供たちの変容をとらえた先駆的な作品ととらえることが可能である。
 しかし、本書は単なる社会派推理ではない。権田萬治は『チョコレートゲーム』の第一の被害者が残した「畜生、みんなジャックのせいだ」という言葉を、1種のダイイングメッセージととらえていたが、それだけでなく、随所に魅惑的なトリックが仕掛けられている。つまり、社会性と本格が見事に融合したミステリーの系譜に属する一編なのである。

(これ以降、内容に踏み込んでおります。作品を最大限にお愉しみいただくためにも、本文読了後にお目通し下さい)

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 『チョコレートゲーム』は、作家の近内泰洋が、妻から中学三年生の息子・省吾が学校に行っていないことを知らされる場面から始まる。さっそく息子と話をするため、泰洋が省吾の部屋に行ってみると、買った覚えのないパソコンをはじめ高価な品物であふれていた。そして、ベットに隠れていた息子が立ち上がると、その体には無数の痣が。心配する泰洋をよそに金を無心する省吾。だが、願いが聞き入れられないと知ると、一方的に父を罵倒し、家を出ていってしまう。
 やがて、省吾の同級生が殺され、続いて学校で第2の殺人事件まで発生してしまう。事件現場で、続けて省吾らしき少年が目撃されたことから、容疑者と目されるようになる。泰洋は、息子を信じたいと思いながらも疑いの目で見てしまう日々が続く。その矢先、省吾が自殺してしまう。ここから父の、息子の容疑を晴らす闘いが始まる。
 『チョコレートゲーム』では、中学生の間で流行り、殺人事件の鍵になっている(らしい)謎のゲーム「チョコレートゲーム」や、第1の被害者が事件前に漏らした一言「畜生、みんなジャックのせいだ」など、意味が分からない言葉(隠語)がキーワードとなって物語を牽引していく。しかし、本書が秀逸なのは、魅惑的なキーワードを表に出しながらも、キーワードを足でたどり、証言を集めることでは真相にたどり着けないようになっていることにある。この足での捜査を困難にする装置として、事件を早く忘れたい学校関係者や、同級生(被害者)の親の感情を巧みに利用している点も重要であるろう。これによって、何の違和感もなく、ごく自然に足での捜査が不可能になってくるからだ。そして、足での捜査が行詰まった後にクローズアップされていくのは、まさに本格としての枠組みなのである。
 探偵役の近内泰洋は、聞き込み調査に限界を感じていた時、知り合いの編集者と事件の経過を検討し始める。その時の話題は、「ジャック」というニックネームを付けられるのは、どのような少年か、というものである。この時、編集者が漏らした一言によって、泰洋は事件全体を、別の角度から検討することに思い到る。その時、再検討に用いられるのは、編集者が万馬券を当てたという話や、教師が生徒たちからラジオを取り上げたというエピソード、同級生の母親の話に出た子供の部屋の様子といった、日常生活で何気なく話されるような話題ばかりである。しかし、このような断片が丹念に並び替えられ、別の解釈を与えられることによって、まったく別の物語が浮かび上がってくる。
 ここにあるのは、伏線の妙である。しかも、いかにも手掛かりになりそうな話題に重要な意味をもたせるのではなく、どう考えても事件とは無関係に見える事象に二重の意味を与え、それが謎解きに結び付くラストでまったく違った意味に反転させてしまう。ここには、読者の思い込みを覆す、本格ミステリでなくては味わえない妙味が存在している。
 しかも、足での捜査を困難にし、本格としての捜査に転換する原因を作ったのが、「一時は、マスコミが躍起になって事件を報道した。名門の学園で起こった中学生の殺人事件。それは、ショッキングで、世間の興味を煽り立てるのに恰好な材料だった。(中略) しかし、それもひと月が過ぎると、砂の上に流した水のように、跡形もなく消えてしまった。人々にとって、事件はもう過去のものだった」というマスコミ(これは、一般的な読者の感心に呼応するものなので、「世間の」という言葉に敷延できるだろうが)の反応であるのも興味深い。ここには、事件報道をめぐるマスコミの役割や責任という社会的なメッセージが込められているようだが、それだけでなく、本格という装置を起動をさせることで、社会的な問題がフィドバックされるようにクローズアップされていくという周到な仕掛けであるようにも思える。
 そして、当初の思い込みを覆す、という趣向は、『チョコレートゲーム』に仕掛けられた数々のトリックの中でも、重要な役割を担うアリバイ・トリックにも用いられている。
 本書で描かれるアリバイ・トリックは、ラジカセとテープで大きな音を発生させるという、子供じみたものである。案の定、この仕掛けは、大きな音がしたのに教室の椅子や机が倒れていない、という警察官の指摘によって、あっという間に見破られる。しかも、教室を省吾が覗いていたという証言によって、容疑はますます強くなってしまう。
 このあまりに幼稚なアリバイ・トリックは、物語が進むに連れて、別の意味をもってくる。泰洋は、教室を覗いていた省吾が、警官を見て逃げた、という証言について「これが犯罪自体を隠蔽するためのトリックだったら、警察が来たということで驚くのも無理はない。しかし、アリバイ・トリックでは、捜査が行なわれることは前提条件になっているんだよ。だから、警察が来ていたからといって、すぐに失敗したと考えるわけはないんだ」という反論を構築する。この1種のアリバイ・トリック論を経て、真の容疑者が浮かび上がってきた後には、容疑者がラジカセを使ったアリバイ・トリックを仕掛けることが不可能であったことでアリバイが保証されるという、逆説的なアリバイ・トリックに変容していく。トリックを仕掛ける/仕掛けられないという反転は、それがトリックとして秀逸なだけでなく、社会派から本格への反転、伏線部分の前半と後半の反転、何より成績も良く、クラスでも一目おかれていた第1の被害者・貫井直之がラストで別の役割を担わされたり、「チョコレートゲーム」という甘い言葉が、中学生離れした苦いゲームであったことが判明する場面などと呼応しながら、『チョコレートゲーム』の、(社会派としても本格としても優れている)ミステリーとしての根幹を支えているのである。
 『チョコレートゲーム』 は、85年3月に講談社ノベルスから刊行され、第39回日本推理作家協会賞 長篇賞を受賞した作品である。また、文春傑作ミステリー・ベスト10の国内部門6位にもランクインしている。文学賞やベスト10入りしたからといって、それが即、優れた作品とは思わない。しかし、このような心配は、本書に限っては無縁である。最近の本格作品には、連続殺人を描くことで現代の病理を浮かび上がらせた殊能将之『ハサミ男』(講談社ノベルス、99・4)、幼児虐待の問題を扱った西澤保彦『依存』(幻冬舎、00・7)、生命科学の発達による死と不死概念の変容をとらえた柄刀一『ifの迷宮』(カッパノベルス、00・2)など、社会問題と本格趣向を融合させた傑作が少なくない。『チョコレートゲーム』は、それ自体が傑作というだけでなく、90年代後半の本格シーンのテーマ及び方法論を先駆的に取り組んだ作品として、これからも屹立し続ける作品といっても過言ではあるまい。