『解説』
薬丸 岳

 ぼくにはこの数年、何度も読み返している自分にとってのバイブルと呼ぶべき本があります。
 その本とは井上夢人さんがお書きになった『おかしな二人』。
 本書を手にしておられる読者のかたなら、井上夢人さんがどのような作家なのかすでにご存じかと思います。え、ご存じない? まあ、何百人に1人ぐらいはそういう読者もいらっしゃるかもしれません。では、本書の後ろのほうに載っている著者プロフィールをご覧ください。
 ほら。もうおわかりですよね。井上夢人さんは本書の作者である岡嶋二人(本名・徳山諄一さんと井上泉さん)のうちの1人なんです。
 岡嶋二人は日本でも珍しい、コンビでミステリーを書き続けてきた作家で、82年に『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞してから、89年の『クラインの壺』でコンビを解散するまでの7年間に27冊の小説と、1冊のノンフィクションを残しています。
 そして、ぼくのバイブルである『おかしな二人』は、岡嶋二人が解散した後に井上さんによって発表された回想録です。
 どうしてこの本がぼくのバイブルとなったのかについては後に触れさせていただくとして、まずはぼくと岡嶋二人との最初の出会いについてお話しましょう。

 ぼくが最初に岡嶋二人の作品に触れたのは、今から20年ほど前、10代の終わり頃だったと思います。記憶力にあまり自信がないので書棚に並んでいる岡嶋二人の本を取り出して確認。思い出しました。ぼくが最初に読んだ岡嶋二人の作品は『あした天気にしておくれ』でした。
 どうして記憶力に自信のないぼくが、たくさんある本の中からすぐに最初の1冊を思い出せたかって?
 そ、それは……本の裏側にえんぴつで250円と書いてあったから。そうです。岡嶋二人の最初の作品は古書店で購入したものでした。徳山さん、井上さん、ごめんなさい。でも、それ以外はすべて書店で購入したものなのでどうかお許しを……
 ひさしぶりに『あした天気にしておくれ』のカバーを眺めているうちに、釈然としない思いがこみ上げてきました。カバーには馬の後ろ姿と煙草の吸殻が描かれています。この本を手がかりに今回の解説を書こうと思っていたのに、ひとつの『謎』が浮かび上がってきたのです。
 あのとき、どうしてこの本を買ったのかがいっこうに思い出せない。
 別に本を買うことにたいした動機など必要ないだろうと、読者のかたはお思いでしょう。それはそうなのですが……ただ、あの頃のぼくは恥ずかしながらほとんど本を読んでいなかったし、ミステリーにも興味がなかったのです。それに競馬にもまったく関心がない。(『あした天気にしておくれ』は競馬を題材にしたミステリーです)
 あの頃のぼくは暇さえあれば映画ばかりを観ている、映画青年でした。そんなぼくがどうしてこの本を、250円という安価とはいえ買ったのだろう……
 いくら記憶をたどってもどうしても思い出せないのですが、それからのぼくと岡嶋二人との不思議なつながり(ぼくが勝手にそう思っているだけですが……)を考えると、それは『運命』とか『縁』と言ってしまってもいいのかもしれない。
 いずれにしても、ぼくはあのとき『あした天気にしておくれ』を読んで激しい衝撃を受け、それからは次々と岡嶋二人の作品を読んでいき、ミステリー小説にハマっていきました。ほとんど本を読まなかったぼくに小説を読む愉しさと、ミステリーの面白さを最初に教えてくれたのが岡嶋二人だったのです。
 ただ、そんなぼくもある時期からぱたっと岡嶋二人の作品を読まなくなり、他の作家に興味を移していきました。
 思い当たる理由はひとつ……岡嶋二人が解散したと知ったからでしょう。
 もうこれ以上、岡嶋二人の新しい作品を読むことはできない。今現在発表されている27冊の小説しかないと考えると、すべての作品を読破してしまうことに何とも言えない寂しさともったいなさを感じてしまったのです。
 ちょうど、箱に残ったケーキを一気に食べ切ってしまうのはもったいないから冷蔵庫にしまっておこう……そういう子供っぽい心境というのでしょうか。
 岡嶋二人という箱の中にはまだ味わったことのない10数個の作品が残っていました。どれもおいしそうですぐにでも味わいたかったのですが……いつか、新しい驚きと愉しさを求めたいときのために取っておこうと……ただ、そう思っているうちに、いつしか、ぼくの頭から岡嶋二人という名前は薄れていきました。

 岡嶋二人と再会したのは、それから10数年後のことです。
 きっかけは、ぼくの無謀とも言える計画でした。ぼくはその頃、物語を作る仕事がしたいと、ドラマのシナリオや漫画原作の勉強を10年近く続けていました。しかし、まったく物にならないでいたぼくは一念発起して、ミステリー小説を書いて江戸川乱歩賞に応募しようと考えていたのです。ただ、今までに小説を書いたこともなく、ミステリーというジャンルの話も考えたこともなかったぼくが江戸川乱歩賞を目指すだなんて、今から考えてもそうとう無茶な計画だと言えます。
 だけど、何とかこの計画を実現させたかったぼくは藁にもすがる思いで、小説やミステリーの書き方といった類の本を探しては読みふけっていました。その中の1冊が後にぼくのバイブルとなる『おかしな二人』だったのです。この本の中で井上さんは、徳山さんとの出会いから、2人でミステリーを書き始めることになったいきさつ、やがて江戸川乱歩賞を受賞して作家となってからコンビ解散に至るまでの話をかなり詳細な形でお書きになっています。
『おかしな二人』を一読して、ぼくは(井上さんには申し訳ないのですが)笑ってしまいました。
 ぼくがやろうとしていることもそうとう無謀だけど、岡嶋二人はそれ以上だったのだなと思ったからです。(詳しくはぜひ『おかしな二人』をお読みください)
 少なくとも江戸川乱歩賞を目指すスタートという意味では、当時のぼくのほうが1歩か2歩前を行っているような気がして、その後のお2人のように切磋琢磨すれば必ず江戸川乱歩賞をとれるような作品を作れると、この本によって大いに自信をもらいました。そして、この本の中から、ミステリー小説を書くために必要なヒントをたくさん学ばせていただきました。
 ぼくはその後、2年近い歳月をかけて1本の小説を書き江戸川乱歩賞に応募し、幸運にも受賞することができました。そのときに選考委員のひとりとして選考してくださったのが、なんと、井上夢人さんだったのです。
 これが、先ほどお話していた、ぼくと岡嶋二人との不思議なつながりです。

 ここまでこの解説をお読みいただいた読者の中には、何とも出来過ぎな話だとお思いのかたもいらっしゃるでしょう。そうかもしれません。何とも出来過ぎた話です。ただ、すべて本当の話なのです。
 出来過ぎついでに、ぼくの教科書代わりの本を1冊紹介しましょう。
 それが、今回解説を書かせていただいている『三度目ならABC』です。
 この作品の魅力については後の解説で新保博久さんが語り尽くしてらっしゃるので、ぼくは少し違う視点から、どうしてこの本がぼくの教科書なのかについてお話しましょう。
『おかしな二人』では、いくつかの作品について具体的な創作術が語られています。アイデアやミステリーに必要なトリックの発想の仕方、またそれらをどうやって発展させてひとつの作品に仕上げていくのかといったことです。
 小説家を目指しているかたなら非常に興味深いお話ですよね。いや、別に小説家を目指していなくても、作家がどのようにしてアイデアやトリックを生み出し小説を書いているのかに興味を持たれているかたは少なくないかもしれません。
『おかしな二人』の中には、『三度目ならABC』のいくつかの短編について、具体的な創作の過程が語られています。
 もちろん作家すべてが岡嶋二人のような創作のしかたをしているわけではないでしょう。ただ、ミステリー小説を書き始めたばかりのぼくにとってはそのプロセスと、実際に出来上がった作品とが、小説を書く上でのひとつの重要な教材となったのです。
 本書をお読みになられて、これらの素晴らしい短編がいかにして生まれたのかに興味がおありのかたは『おかしな二人』も併せてお読みいただくことをお勧めします。(ただ、トリックなどのネタばれがありますので本書をお読みいただいてからのほうがいいと思います)
 数年前には教材のひとつとして読んでいましたが、今あらためて読み返してみても、物語のおもしろさやトリックの切れといい、キャラクターの魅力といい、本当にクオリティーの高い短編集だなと思います。
 さらに今回の増補版では、今までに未収録だった「はい、チーズ!」という作品が新たに加わった超豪華な内容になっています。

 長々とお話してきましたが、最後にひとつ――。
 先ほど、ぼくは岡嶋二人の作品にはかぎりがあるから、すぐにすべての作品を味わってしまうのはもったいない、という趣旨のことをお話しました。
 もしかしたらそういう気持ちもわからないではないと感じてくださった読者もいらっしゃるかもしれませんが、ぼくはこの考えを訂正させていただきたいのです。

 江戸川乱歩賞の最終選考を待っている間、ぼくは選考をしてくださっている作家の今までに読んだことのなかった作品を買って読んでいました。何かのゲン担ぎというようなものもあったでしょうし、今この瞬間にも、自分のような素人の作品を読んでくださっているのだからという恐縮した思いもありました。
 そのときに井上夢人さんの『オルファクトグラム』を読んで、ぼくは『あした天気にしておくれ』を読んだときに感じたような衝撃を受けました。いや、あのときは小説も、ミステリーもほとんど読んでいなかった。だけど今は、それなりにミステリーを読んできている。それなのにあのときのように、いや、あのとき以上にどきどきわくわくして、しばらく天国と地獄のふちをさまよっている(乱歩賞を受賞するか落選するか)という切羽詰まった自身の状況を忘れてしまうほど夢中になりました。
 たしかに岡嶋二人という箱に入った極上の作品にはかぎりがあります。この箱の中にはもう新しい作品は増えないでしょう。だけど、井上夢人という新しい箱の中には、岡嶋二人に負けず劣らない極上の作品が生まれ続けています。
 というわけで、本書を読んで岡嶋二人の作品に夢中になった人は、もったいないなんて言わずにすべて味わい尽くしちゃいましょうよ。