『解説』
北上次郎

チョコレートゲーム』がいい!
 この小説が書下ろし刊行されたのは一九八五年三月だが、その時点でこう書いた。
「85年はまだ9カ月も残っているのに、もうベスト1を決めてしまうのは乱暴だが、年末までこの小説を支持し続けたい」
 なぜこれほど興奮したのか。
『どんなに上手に隠れても』の文庫解説だというのに、他の作品のことを書くのは気がひけるが『チョコレートゲーム』の中に岡嶋二人の長所が凝縮されていると思われるので許されたい。
 まず人物造型とディテールの描写にすぐれていること。たとえば『チョコレートゲーム』の中に、主人公である父親が、受話器の向うから聞こえてきた息子の声を幾度も想い起こす件りがある。唸ってしまうのは、素行のよくない中学生の息子との関係を、父と子が濃密な時を過ごしていた過去と比較せず(こういう幸福な過去と対比させて現在の哀しみを浮き彫りにする描写は他の作家によくある)、理解しあえないまま別れさせてしまう点だ。息子は物語の半ばで、殺人者の汚名を着たまま死んでしまうのである。この展開が唸るほどうまい。比較として濃密な過去も出さず、しかもこれから理解しあうこともないという状況を、作者はつくるのだ。
 当然、父親は息子の汚名を晴らすために事件の真相を探り始めるとの展開になるが、たとえ事件が解決したところで息子が生き返るわけではないのだから、物語の背後にしんとした哀しみが最後まで立ちつくしている。そういう取り返しのつかない現在の悔恨と哀しみを、作者は受話器の向うから聞こえてきた息子の声を何度もリフレインすることで主人公に与えるのである。
 ここには、生きた人間がいる。そして、そういうふうに人物を彫り深く活写しているからこそ、サスペンスにもまた紙上のリアリティが色濃く立ちこめるのである。
 次に岡嶋二人はトリック・メイカーではあるけれど、トリックに寄りかからず、その本質はプロット展開の巧みさにあること。『あした天気にしておくれ』のあとがきを読まれたい。この作品は第27回江戸川乱歩賞の最終候補になりながら落ちた作品だが(その時の受賞作は長井彬の社会派推理『原子炉の蟹』で、こういうふうに題材第一の選択には当時うなずけないものがあった。もっとも岡嶋二人は翌年『焦茶色のパステル』でその不運をはね返し、同賞を受賞する)トリックに先行作品があるとの落選理由に,どんなトリックが使われているかではなく、どんな使われかたをしているかだと、このあとがきで作者は控え目に、しかし力強く対抗している。自作のプロットに自信がなければこうは発言できない。実際に、『あした天気にしておくれ』は夏樹静子の短篇を先に読んでいたところで十分に面白いのだから、虚勢ではない。実力が伴なっている作家なのだ。
 岡嶋二人は『焦茶色のパステル』で第28回江戸川乱歩賞を受賞して以後(一九八二年九月刊)、最新作『眠れぬ夜の殺人』(一九八八年六月刊)まで、長篇十七作、短篇集三冊を刊行している。年間平均三・三冊だから日本ミステリー作家(年間七~八作書く作家は何人もいる)の中では着実な活動といえるだろう。デビュー作『焦茶色のパステル』はサラブレッドをめぐる事件を描いたもので、人物造型、サスペンスともにその実力をいかんなく発揮した作品である。『七年目の脅迫状』(一九八三年五月刊)、『あした天気にしておくれ』(同十月刊)と初期三作は競馬に材を得たミステリーだが、『三度目ならばABC』『とってもカルディア』『殺人者志願』など、ユーモラスな味つけのあるミステリー、『タイトルマッチ』『ダブルダウン』などのボクシング、『ビッグゲーム』の野球と、スポーツに材を得たもの、さらには『コンピュータの熱い罠』のように現代社会の問題点を鋭くえぐる作品まで、岡嶋二人はいろいろな展開を見せてくれている。現代ミステリー作家の中ではもっとも信頼できる作家の一人だろう。
 あえて書くが、人物造型にすぐれ、トリックが独創的で、さらにプロットの展開が巧みなので、犯罪の動機が不自然だとその部分だけ目立ってしまうことがある。すべてに完璧な作品を望むのは酷な注文かもしれないが、『チョコレートゲーム』のような傑作を書く作家だけに、他の作家以上のことを求めたいのだ。岡嶋二人がそれだけの資質と実力を持っているからこそ、であることは言うまでもない。
 たとえば最近の傑作『そして扉が閉ざされた』を見よ。核シェルターに閉じ込められた四人の男女が三カ月前の事件を互いに推理し始めるというこの極限の推理合戦は、久々の知的興奮を与えてくれる。四人の中に犯人がいて、犯人以外は嘘をつかないというルールを作者が自らに課す意欲作で、それだけでも徐々に真相が明らかになっていく推理の展開がスリリングだが、この作品を傑作たらしめているのは、単なる"論理のお遊び"(これも好きなんですが)に終っていない点だろう。『そして扉が閉ざされた』があざやかな印象を残すのは、真相解明の瞬間に噴出する人間感情がこの小説の水面下に流れているからだ。その瞬間、この密室劇は青春の断面をあざやかに切り取る人間ドラマに転回する。岡嶋二人がアイデアだけの作家ではないことを、ここでもまた証明しているかのようだ。人物造型にすぐれているから、こういう小説をものにするのである。
 最近の作品には『眠れぬ夜の殺人』というとてつもない話もあるが、こういうふうに油断できない 作家も、水増しミステリーがあふれている現在では珍しい。
 さて、本書『どんなに上手に隠れても』は一九八四年九月、トクマ・ノベルズの一冊として書き下ろされた作品で、岡嶋二人の第五長篇にあたる。
 新製品キャンペーンの直前に新人歌手が誘拐されるのが発端。誘拐を扱った作品としては、ノックアウトで相手を倒せという奇妙な(普通はまけろと脅迫されるものだ)脅迫状が舞い込む第四長篇『タイトルマッチ』がすでにあるので、今度はどんな趣向かと思っていると意外なことにストレートに一億円の要求。となると岡嶋二人のことであるから、犯人が身代金をいかに奪い取るか、その方法に凝ることが予想される。案の定、一枚皮をめくるともう一枚というように、二転三転する身代金受け渡しのサスペンスが展開する。このあたりはさすがに岡嶋二人で、読者の目を離さない。
 狂言まわしは女性マネージャーと、宣伝部ディレクター。大事な歌手が誘拐されたことすらキャンペーン戦略に組み入れようとするディレクターのアイデアと非情さを過不足なく描いているのは、作者のデッサン力がすぐれているからだ。そういう広告業界への痛烈な批判を核にしているのは、のちに『コンピュータの熱い罠』で試みた現代社会への諷刺と警鐘に通じるものがあるが、だからといって岡嶋二人の位置が社会派にあるわけではない。この小説の力点が、一億円の身代金のキャッチボールにあることからも、それは明らかだろう。
 さて、一億円の身代金はどこで消えてしまったのか。現代ミステリーの旗手、岡嶋二人の世界を、とくとごらん下さい。

一九八八年八月