ラバー・ソウル「解説」
高頭佐和子(書店員)

 今、『ラバー・ソウル』解説ページを読んでいるあなたは、どのような状況にいらっしゃるのだろうか。この小説を一気に読んで、何とも言えない読後感の中にいるところ? 大好きな井上夢人氏の文庫をすぐに読み始めるのが持ったいなくて、とりあえず解説ページを開いてしまったところ? 井上夢人という作家はよく知らないけれど、ビートルズのアルバムと同じタイトルなので、気になって手にとってみた? もしくは、書店の棚の前で、何か面白いミステリはないかなあと物色中?

 これを書いている私は、単行本刊行時に二度読んだ『ラバー・ソウル』を再々読し、最初に読んだ時と同じように胸が潰(つぶ)れるような切なさを感じている。この本を最初に手にとった時には、まさかこのような心境になるとは想像していなかった。井上夢人氏は結末はもちろんのこと、何より読み手の感情を全く予想しない方向に持ってくる作家だと思う。私は書店で働いているので、何か面白いミステリを教えてほしいと売り場でお客様に頼まれることが時々ある。今までたくさんのお客様に、井上夢人作品をお勧めしてきた。思い入れがありすぎるせいか、「どういう作品なの?」と聞かれると「いろんな方向に玉を投げてくる作家なんです!」とか「こういうテーマの小説なんですが、読み終わると全然違う印象になると思いますよ」などとわかりにくいことを言ってしまい、お客様を戸惑わせてしまったことも多い。未読の方の楽しみを奪わないように・・・、と思いながら言葉を選ぶことには、いつももどかしさを感じてしまう。「『オルファクトグラム』なら読んだよ。あれは面白かったよね。他のも読んでみようかなあ」なんて言われると、仲間に巡り合えたような気がして嬉しくなってしまったりもする。今、この原稿を書きながらそのもどかしさと嬉しさを両手にぶら下げて綱渡りをしているような緊張を感じている。よく行く書店の店員と、オススメの本の話をしているような気持ちで読んでいただけるとありがたい。

 この小説の主人公・鈴木誠(すずきまこと)は、洋楽専門誌にビートルズの評論を書く仕事をしている。裕福な実家のおかげで豪邸に住み、ビートルズに関しては右に出るものがいないほど大量の資料や貴重な音源を所有していて、自宅には、高価なヴィンテージカーが3台もある。金銭に不自由することなく、趣味を仕事にし優雅に暮らしている男を、たいていの人ならば羨(うらや)ましく思うだろう。だが、鈴木誠には決定的に欠けているものがあった。幼い頃の病気のせいで容貌(ようぼう)にハンディキャップがあり、人との関わりを避けているのだ。友人が少ないとか異性に関心を持たれないというレベルではない。見た目故(ゆえ)に、出会った途端(とたん)、人から忌避(きひ)されてしまう。親や教師からも疎(うと)まれて育ち、ただ一人の忠実な使用人を除(のぞ)いては子供の頃から他者と関わることがほとんどなく生きている。ビートルズとの出会いが彼の人生に小さな光をもたらしていて、雑誌にその評論を書くことが唯一の社会とのつながりだ。そんな孤独な主人公が、ヒロイン・美縞絵里(みしまえり)と出会ったところから物語は始まる。
 訳あって立ち会うことになった雑誌の撮影現場で大事故が起こり、誠は駆け出しのモデルである絵里を、愛車で自宅に送り届けることになる。助手席に乗った初めての女性である絵里は、誠にとってただ一人の特別な女性になる。だが、事故で親友を失い茫然自失(ぼうぜんじしつ)の状態であった彼女には、その姿すら目に入っていないし、まともな会話すらしていない(姿を認識していたら、何が何でも乗車拒否していただろう)。自分では気がつかないうちに、覚えてもいない相手の運命の女性になってしまった絵里はさらに事件に巻き込まれ、得体のしれない相手から執拗(しつよう)なストーカー行為に怯(おび)えることになる。その恐怖と、彼女に近づく男たちを「始末」していく誠の異常な執着と歪(ゆが)んだ愛情が、当事者の二人と事件に関わった人々の証言という形で書かれていく。

 登場人物たちによって語られるストーカー行為は最低最悪で許せないものだ。住まいの向かいのビルに監視部屋を作ったり、巧妙な手段で生活の全てを盗聴、盗撮したり……。誰だかわからない相手からこういうストーカー行為を受けたら、怒りや恐怖を通り越して全てが信じられなくなり、普通の精神状態で生きていくことができなくなってしまうのではないだろうか。最初に読んだ時には、小説とは言え気分が悪くなって、いつもの井上作品なら一気読みするのに、途中で休憩を入れてしまったくらいだ。

 ただ、気持ちの悪さにぞっとする一方で、次第に主人公の心に共鳴していく自分がいた。自分には何の責任もない容貌の問題で、存在自体を否定されているように生きてきた主人公。親や教師たちという本来は愛情を持って接してもらえるはずの人々に疎まれても、出会った人々から差別的な態度をとられても、顔を見ただけで逃げるように立ち去られても、誰かを恨むことなく全てを受け入れて生きるしかなかったあまりに孤独な過去。小説の中の人物でしかも自分勝手なストーカーなのに、どうにか救われて欲しいと願わずにはいられなかった。もちろん、大切な人を失った上に、ストーカーのせいで生活をめちゃくちゃにされている美人を気の毒には思うのだが……。

 その後の物語の展開については、未読の方の楽しみを奪わないために詳しくは書かないことにしたいと思う。最終章まで読めば、予想外の結末にもう一度最初からページをめくりたくなることは保証するので、もし購入を迷っている方がおられるのならば今すぐ本を閉じてこのままレジに直行していただきたい。各章にはビートルズのアルバム『ラバー・ソウル』に収録された曲名と同じ名前がつけられている。これはこの小説にとって重要な要素なので、ビートルズファンの方にはそこもお楽しみいただけると思う。私は特にビートルズファンではないのだが、読み終わった後、思わず歌詞を確認してしまった。これから読む、という方がいたら、先に聴いてから読むのも良いのではないだろうか。

 でも、この小説の最大の魅力は、この読後感だと思う。表紙のイラストを見かけるたびに、苦しいような気持ちがよみがえってきてしまう。人を愛したり、大切に思うことは人生にとってどんな意味があるのだろう。決して相手に届くことのない思いに、価値はあるのだろうか。人生に輝きを与えるのは、どういう物なのだろうか。『ラバー・ソウル』は私にとってはただ切ないだけの小説ではない。とても不思議なことなのだが、この孤独な犯罪者の生き方から、小さな希望をもらったような気がするのだ。

これを機会に、いくつかの井上夢人作品を読み直したくなった。こういう仕事をしていると、同じ本を何度も読むことはないのだが、井上夢人氏の小説は二度三度と読み返すことが多い。読み始めると小説の世界に引き込まれてしまい、その中にいることを純粋に楽しめる小説なのだと思う。『プラスティック』(講談社文庫)は本書と似た構成で、数人の登場人物の手記という形で物語が進むが、『ラバー・ソウル』とはまた違う驚きが待っている。合わせて読むと面白いのではないだろうか。読後感に驚きたい方には、岡嶋二人として活躍していた時代の最後の作品『クラインの壺』(講談社文庫)はいかがだろう。ヴァーチャルリアリティ・システムを題材にした小説なのだが、書かれてから25年以上経った今読んでも全く色あせた感じがしないことに驚いた。既読の方にもこれを機会にぜひ再読してみてはいかがだろうか。『オルファクトグラム』(講談社文庫)では嗅覚、『魔法使いの弟子たち』(講談社文庫)では感染症と最強の超能力、というようにテーマが多様なのも特徴だ。どの作品も、全く予想しない方向に着地するので、井上作品の発売が決まるたびに、びっくり箱を開けるようなドキドキ感を味わっている。

 実は『ラバー・ソウル』刊行直後、私は一度だけ井上氏にお会いする機会をいただいた。学生時代からの長年のファンとして、書店員として、ずっと思っていたことをお願いするつもりだった。それは、もうちょっとコンスタントに作品を発表してほしいということだ。井上夢人氏として第一作を刊行してからもう22年が経つが、刊行された小説は13冊だ。多くの読者を待たせているミステリ作家としては、かなり少なめなのではないだろうか? 読者に忘れられるということは絶対にないと思うし、既刊の文庫もよく売れているのだけれど、売り手の都合を言わせてもらうと、こういう作家の方にはできれば年に一作は単行本を出していただいて、新しい読者をどんどん増やしていただきたいのである。
 初めて会った井上夢人氏は、私よりずっと大人なのに自由な空気を纏(まと)った素敵な男性だった。ビートルズと作品の関係について語る氏は、ものすごく嬉しそうに目をキラキラ輝かせていて、大事な宝物のことを熱心に話している少年のようだった。こういう方だからこそ、誰にも思いつかないテーマで、誰よりも繊細な物語を作れるのだろう。著者が書きたいものを、納得する形で書き上げるのをひたすら待つのが読者にとっても一番の幸せなのかもしれない。そんなことを思ってしまい、「年に一度は新作を!」という野暮な希望を伝えることはできなかったが、『ラバー・ソウル』単行本刊行からもう二年が経つので、最後に読者を代表する気持ちで著者にメッセージを送らせていただこうと思う。

 井上夢人さん、 そろそろ新刊を、お待ちしております!