『解説』
池波志乃

 
「井上さんの全作品の中で、私のベスト1は『メドゥサ、鏡をごらん』です!」
「え~? 珍しいですねえ」
 初めて御本人にお目にかかったときの会話である。
 初出は『小説推理』1995年10月号から1996年6月号の連載。翌97年2月に単行本として双葉社から、2000年8月には講談社ノベルスで刊行された。双葉社版の装幀は京極夏彦氏で、不気味なマスクが浮き出したCGによる凝った背景、文字遣いはまるで作品全体に対する伏線とも思え、読後に改めて見入ってしまった。帯にはフォントサイズの違う、不安定な文字が浮かんでいる。「おまえたちみんな死んでしまえ」……攻撃的な呪いの言葉が、辛く哀しい──。
 できればこの舌足らずな前置きだけで、ジャンル分けやコード、趣向などという余計な先入観を持たずに読んで頂きたい。何故なら既存の枠に当てはめてこの作品を読み解くことは不可能だからだ。
 井上夢人は、「本格」「新本格」といったジャンルが縛られているこだわりを、敢えて削除して新しいファイルを作ったのではないか。もちろん井上の頭脳というハードディスクの中には膨大な資料が残っている。適切かどうか解らないが、井上の小説は「読者のデータ・マイニング」の開発をしているように見える。
 ところで、書き出しに記した御本人との会話だが、残念ながらあれ以上お聞きすることはできなかった。しかし「珍しいですねえ」というひと言が気になって、数十件の読書日記サイトを読んでみた。
 双葉社版にも講談社ノベルス版にも「本格推理小説」「ホラー」などのジャンル表記はされていない。当然それは判った上で尚、何故かこの作品への書評や感想の多くがジャンルに拘っている。曰く「本格ミステリではない」「ホラーとして捉えたい」「サイコホラーともSFとも分類できそうな……」云々。そして読者に委ねられた解釈、結末に対する賛否は見事に分かれる。採点すれば2点もしくは5点で中間がない。否でも2点なのは「引き込まれ度」「夢中度」「恐怖度」は抜群だからという理由があげられていて、賛否両論とはいえこれは誰もが認めている。加えて共通しているのは「ネタバレが恐くてこれ以上は書けない」と、あらすじは冒頭部分だけが紹介されていることだ。例えば──
「作家・藤井陽造は、異様な死に方をした。彼は全裸になり、その全身をセメントで塗り固め、木枠の中へ横たわっていたのである。その脇にはガラスの小瓶があり、中には奇妙な文が一行〈メドゥサを見た〉と書かれたメモが入っていた。彼の娘・菜名子の婚約者である主人公は、あまりに奇異な自殺に疑問を持ち、調べ始めるが……」
 ほとんど作品の冒頭部分からの引用を並べただけであるが、確かに紹介記事としてはこれが限度だろう。ここだけ読めばまさに「探偵小説」である。

*ここからは内容に触れています。作品そのもの、プロット自体が「ネタ」である為、どこをとっても「ネタバレ」の恐れがあります。作品読後にお読みくださいますようお願い申し上げます。
 

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 ということで、もう少し先まで書いてみよう。
 探偵役の主人公は、小説家・藤井が死の間際まで書いていたと思われる原稿の存在を、残された日記によって知り、調査を始める。パソコンのファイルは完全削除されていて、フロッピーもプリントされたものもない。不可解な死の謎を解く鍵はその小説に隠されていると確信した主人公は、覚書程度の日記を頼りに小説の舞台と思われる、地方の小さな町に足跡を求めて出かけていく……。
 主人公は藤井の死に方にショックを受けながらも、婚約者である娘を気遣い、悼む気持ちと好奇心の狭間で悩む。主人公の仕事、日常、心の動きなどが丁寧に書き込まれて、自然に感情移入できる。
 このそそられる探偵小説的プロットゆえに結末の合理的な解決を期待してしまうのだろう。言い換えれば、謎が謎を呼びトリックが錯綜しても、最後にはルールに則った解決がある「探偵小説」「本格ミステリ」だ、と認識させられてしまうのだ。
 82年に『焦茶色のパステル』で第28回江戸川乱歩賞を受賞して以来、数多くの優れた「本格ミステリ」を書き継いできた岡嶋二人としての作品を読めば、これは当然のことだろう。人間の内面をきっちり描いた本格スピリット溢れる作品は、岡嶋二人の真骨頂でもあった。
 ご存知のとおり岡嶋二人は徳山諄一とのコンビ名だが、テーマ、トリックのアイデアを徳山が出し、執筆は井上がやっていたという。89年の『クラインの壺』を最後にコンビを解消し、井上夢人として92年『ダレカガナカニイル…』を発表して以後2001年『クリスマスの4人』までの間に、長編6作、短編集3作、エッセイ1作を書いている。本作品『メドゥサ、鏡をごらん』は4作目の長編である。岡嶋二人名義だが『クラインの壺』はかぎりなく井上夢人バージョンである。
 私が、井上夢人バージョンとして捉えているコンセプトの大本は、どれほど非日常なテーマを扱おうと、SF的なテクノロジーをトリックに使おうと、特殊ルールを組み込もうと、小説のベースとなる叙述においては日常的であることだ。つまり、登場人物は読者である私と同等の市井の人々であり、その生活や感情が仔細に描かれる為、思わず同調してしまう。それがまず、ベースにきちんと置かれていて純文学としても一級品であるということだ。
 それによって、読者は特殊な現象やルールをも自然に受け入れてしまう。そこに加わる「本格」「サスペンス」といったテイストは、それぞれの作品の本当のテーマを隠す仕掛けともなるし、ミステリファンほどルールを重ね合わせて、自ら井上の企みに嵌まってしまう。その企みとは単にゲーム的に面白がることではない。
  こうして考えていくと、井上作品は古典落語に似ていることに気付く。その中でも「人情噺」や「怪談噺」は最初からそれらしい演出や口調で雰囲気を作り、客をその世界に浸らせるというジャンル的なものだが、本来落語には庶民の笑いの陰に、批判や怒り、残虐行為が隠されている。そして大抵合理的な説明のないまま、さらっと「オチ」で終わる。この「オチ」は今時の「夢オチ」とは違う。「オチ」のひと言が重要なのであり、このひと言で高座と客席という不思議な宇宙は崩壊する。
 くずれこわれるのか、或いは放射線を出して他の元素に変化するのか、この「オチ」にかかっている。
 そしてなにより、井上バージョンのもう1つの特徴は、多方面に渡る濃い「ネタ」を駆使した特殊な世界を描くだけにとどまらず、それを問題化しテーマを浮かびあがらせることだ。それをどう扱うのか、どの方向に持っていくのか、何を組み込んでくるのか……作品ごとにあらゆる試みがなされ、1作として同系のものはない。「作風が似ている」「○○の延長」という見方もあるが、それは部分的な事柄や路線であって、決して重要な核の部分ではないと私には思える。強いて共通性を見出すなら、「メタフィクション」「揺さぶり」「意識」「コンピュータ」「ボーダーライン」「混沌」「錯綜」などの要素だろう。
『メドゥサ、鏡をごらん』は、最も「井上バージョン」が顕著な作品である。ベースであり読者の心理への仕掛けである「探偵小説」部分も、中心となっている物語も、俎上に乗せられている問題も、試されているメタフィクション性も、全てがはっきり見えている。それだけに余計揺れは激しく錯綜も凄まじい。
 謎は山積みにされ、理不尽さはそのまま読者に突き出される。
 そして賛否の焦点である「オチ」は……
 崩壊したのか? 神話の時代から人間が引きずってきた意識の中の「祟りへの怖れ」に、合理的な解決などあろう筈もない。
 あらゆる小説作法を検証してきた井上夢人がここで試みたのは、まさに探偵小説の骨子ともいえる「合理的な解決」なのかもしれない。それは最初の井上バージョン『クラインの壺』で放たれて、1つの宇宙が崩壊した。
 そして変化した新たな作品を、私達は読むことが出来る。次の崩壊を心待ちにしながらも……それでも、やっぱり、誰が何と言おうと
「私のベスト1は『メドゥサ、鏡をごらん』です!」