『メドゥサ、鏡をごらん』 担当の辞
双葉社 小説推理編集部 平野優佳

 パイオニアは迷いの森を、目隠しをされたまま素足で歩くようなもの――。フグの毒にあたってころっと逝っちゃった人が、身を持って警鐘を鳴らしたぐらいに、えらいことだ。後人たちは景色のよい均された道をぬくぬくと歩いて行けるし、美味しいフグ刺しに舌鼓を打てる。
 先駆者・井上さんは、決まって未知なる荊の道を選択する。そして私達を、その先にある、不安だが甘やかなる世界へ誘ってくれる。『パワー・オフ』読了後は、パソコンのスイッチを入れる手が震えたし、『もつれっぱなし』では、見知らぬ女性の間違い電話に怯えた。そして『メドゥサ~』では、鏡を見るのが怖い。得も言われぬ粟立つ恐怖と、それを覗いてみたい好奇心。意識の二律背反をぷるぷると揺さぶられる心地よさ。
 すんばらしい。
 だからこそ、あまりの原稿の遅さのため、担当が印刷所から回し蹴りを喰らおうが、連載途中に井上さんから「やっぱりもう続けられない。連載を中止したい」と言われ寿命が45分ほど縮まろうが、私が提出した単行本の帯キャッチコピーを全ボツにし、「平野さま おまえたちみんな死んでしまえ イノウエユメヒト」(本書の帯キャッチコピー)というファクスが届こうが……
 すべて、いい想い出に、なるのである。
 そう。単行本の帯について言うと井上作品は、どれも編集者泣かせだ。ペルシャ絨毯のように縦横に織りめぐらされた伏線の数々は勿論のこと、作品の存在そのものが、既に大きな仕掛けになっているからだ。つまりこの作品を読み終えた読者は、今、自分がどこに存在しているのかわからなくなる。井上小説の独特なパラレル・ワールドに迷い込むことは間違いないだろう。
 ネタバレにならぬよう、細心の注意を払ったつもりで提出したにも拘わらず「平野さん、ネタバレしてる」と言われボツになったのは、客観的な目で読んできたと思っていた私自身が、既にその世界に囚われてしまっていたということだろう。
 よってこの場では冒頭のシーンだけ紹介させていただく。
 作家・藤井陽造は、異様な死に方をした。彼は全裸になり、その全身をセメントで塗り固め、木枠の中へ横たわっていたのである。その脇には小瓶があり、中には奇妙な一文「メドゥサを見た」と書かれたメモだけが遺されていた。彼の娘・菜名子の婚約者である私は、そのあまりに奇異な自殺に大きな衝撃を受けるのだが……。
 個人的には、井上さんの小説を読んで涙したのはこの作品が初めてである。半ば冗談で井上さんと「井上作品はふじょーりしょうせつ、アイデンティティほーかいしょうせつ」などと言っていたが、今回は不覚にも落涙してしまった。
 本書の装丁は京極夏彦氏。その文字遣い、優れたCGは、作品を十分読み込み、愛し、また「熱烈な井上ファン」と仰るだけに素晴らしいデザインとなった。
 最後に――。
 私がただの読者であった頃、ファンである作家のちょっとしたエピソードを知ることは大きな楽しみであった。ここで井上さんの「小耳に挟んだいい話」をご披露しよう。
 井上さんは、抱いてあげると嬉しくて涎をだらだら流し、洋服をべちゃべちゃにするワサビというキジトラ猫を飼っている。井上さんのヘービースモーカーはつとに有名だが、パソコンいっぱいのサティアンのような仕事部屋の空気清浄器は、彼が一歩足を踏み入れただけで、じいじい稼働するスグレものである。井上さんは作品の中で、編集担当者を登場させることがあるが、『プラスティック』においての私は、大型トラックの運ちゃんだった――。
 以上。ウケなかった? 失礼しました。