『解説』
千街晶之

 
評論家として文庫解説の任を引き受ける際などによく思うのだが、傑作というものにもどうやら2種類あるようなのである。ひとつは、一生懸命立派な解説を書いて、この本を多くの人が手に取るように仕向けたい、とこちらが燃え立つような傑作。もうひとつは、この作品には解説など必要ない、下手な文章で飾るよりは、ただテキストのみを味読してもらうに及(し)くはなし、と痛感させられる傑作。
 これは別にいずれが優れているかといったような問題ではなく、単に私個人のテキストに対する勝手な感想にすぎないとまず断っておくが、その上で敢えて言うなら本書『プラスティック』こそ、まさに後者の代表に当たる傑作なのである。賢 (さか)しらな考察も、屋上屋を架すが如き賛辞も一切不要。ましてや粗筋紹介などとんでもない。「評論家泣かせの小説」とは、こういう作品のために用意されている言葉なのだろう。
 しかし、そこで引っ込んで終わりという訳には行かないのが解説者の責務だから、先にこの解説から目を通している読者諸氏にお願いしたいのだが、この解説文を読むのは一旦中止して、まず本文をじっくり読んでほしい。この先にあるのは、言わでもの分析、書かでもの説明なのだから、読み終えた後でこの解説に戻って来なければならぬ必然はつゆ存在しないけれども。
 なお、ここから先の文章で、私はこの小説の仕掛けに触れるつもりである。
 従って、くどいようだが読者諸氏は是非とも本文から先に読んでいただきたい。
 

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本書は井上夢人の第2長篇として、1994年に双葉社から刊行された。
 岡嶋二人のコンビを解消した後の井上夢人が、ミステリやホラーやSFといったジャンルの枠を超越した、大胆な知的冒険に充ちた作品を世に送り続けている事実に関しては、今更詳述するまでもあるまい。ところで私は、これまでに井上が発表してきた作品群に共通して「木に竹を接(つ)いだような小説」という印象を感じてきた。
 本来「木に竹を接ぐ」とは良い意味で使われる言い回しではないが、ここで私が言いたいのは、木にわざわざ竹を接ぐような大胆かつ困難な試みに挑戦しつつ、幾ら目を凝らしてもどこに接ぎ目があるのかさえ判然としないような不思議な作品を仕上げてしまう。そんな技巧性に井上夢人という作家の本領がある、ということである。
 例えば『パワー・オフ』(1996、集英社)という長篇は、最初はコンピュータ・ウィルスの蔓延との闘いをテーマにした小説かと読者に思わせておきながら、後半に至って人工生命の進化という壮大なヴィジョンを提示してみせる。しかし、緻密に描き込まれたディテールが、その間の断絶を全く感じさせないのだ。『メドウサ、鏡をごらん』(1997、双葉社)の、後半になって明らかになる叙述の大仕掛けにも、あれよあれよという間に異界へ拉(らっ)し去られるような特異な感触があるが、どこが異界との境界線だったのかは判然としない。また短篇集『あくむ』(1993、集英社文庫)収録の諸作の、超自然ホラーともサイコ・サスペンスとも解釈可能な宙吊りの読後感や、『もつれっぱなし』(1996、文藝春秋)や『風が吹いたら桶屋がもうかる』(1997、集英社)における、表面的には筋が通ったロジカルな会話が、いつしか奇妙な方向へと転がっていってしまう面白さからも、2つの異なった要素を巧みに接ぎ木することで新たな小説スタイルを創造してしまう、彼独特の方法論が窺えるように思う。
 本格なら本格、ハードボイルドならハードボイルドという定型に則って小説を書き続ける。それはそれで決して容易なことではないのだが、井上夢人という作家の凄いところは、どんなジャンルにも分類するのが難しいような、新たなスタイルを常に創造していることである。コンビ解消後の第一作『ダレカガナカニイル…』(1992、新潮文庫)以降――否、岡嶋二人最後の作品であると同時に実質的には井上の作品といってもいい『クラインの壺』(1989、新潮文庫)以降と言うべきだろうが、彼が創造してきたスタイルはいずれも独創性充分なものであり、かつ下手な再利用はまず不可能である。新たな小説スタイルを生み出そうと模索する後進は、井上の試行を必ず踏まえた上で先に進まなければならないのだ。
 
 では本書はどうか。本文を読了された読者諸氏はもうお分かりの通り、ここで扱われているのは多重人格テーマである。最近のミステリ界においてはさして珍しくないテーマだが、その扱い方は、ちょっと類例を見出すのが難しい異様なものだ。
 本書は、向井洵子という主婦の日記からスタートする。夫が出張で留守の間にワープロをマスターしようとしている洵子は、練習も兼ねてワープロに日記を打ち込んでいるのだ。だが、悪夢めいた出来事が彼女の周りで起きていることが次第に判明する。まず彼女が図書館に行った時、何者かが彼女の名前を無断で使用して貸出カードの登録を行っていることを知り、次いで夫の会社に電話を掛けても、「あなたは向井の奥さんではない、本物の奥さんとは声が違う」と決めつけられるのだ。何者かが名前を勝手に使用して自分になりすましている――という恐怖。まずは、正統派のサスペンス小説的な発端と言っていい。ただ、勘のいい読者なら、本当に洵子が正常な精神状態にあるのかどうか、この時点で既に疑問を抱くだろう(というか、そういう書き方がされている)。このくだりの不安に充ちた感触は、連城三紀彦の初期の代表作『暗色コメディ』(1979、新潮文庫)の発端を彷彿とさせる。
 次の章で語り手は高幡英世という人物に変わり、洵子の惨殺死体発見と夫の失踪という事実を告げる。その後も語り手は奥村恭輔、藤本幹也、若尾茉莉子……と目まぐるしく変わり、殺された筈の向井洵子さえも再び読者の前に姿を現す。そして終盤、彼らが実はすべて同一人物の異なった人格であった――という唖然とするような真相が明かされる。本来なら「そんな馬鹿な」と呆れ返られるような真相だが、再読すれば精密な計算が全篇に張り巡らされていることに気づき慄然とさせられる。多重人格というネタを最初からうっすらと匂わせながら、「いや、まさか……」と半信半疑の状態のまま読者をラストまで引っ張っていく手腕は驚くべきものだ。しかし、こういう奇想天外な発想はどこから生まれたのか。
 最近、井上夢人にインタヴューする機会があったのだが、その時に彼は「自分はファン・ライターではない」ということを繰り返し語っていた。無論これは、彼がミステリの読書体験に乏しいということではなく、大学の推理小説研究会出身の作家たちのように系統的な読書歴を積まなかった、ということなのだろう。
 ある意味で、それは井上夢人という作家の強みなのだと思う。ミステリ150年の歴史が生んだ夥(おびただ)しい約束事は、貴重極まりない技法の宝庫であり先人たちの知恵の集積であると同時に、新たな試みへの不敵な挑戦を黒い腕で呪縛しようとする背後霊ともなり得る。恐らく、歴史や約束事を熟知し敬意を払っているミステリ作家ほど、まとわりつく背後霊の囁きをふと疎(うと)ましく意識しないではいられない瞬間を持つことだろう。井上には、どうやらそんな葛藤はさして縁がないようである。マニア的な系統的読書体験を積まなかったが故に、彼は150年の遺産の中から、自由に「美味しいところ」をもぎ取り、その甘美な果汁をがぶ飲みすることが出来る。
 今年になって邦訳が出たフランス文学専門家ジャック・デュボアの『探偵小説あるいはモデルニテ』(1992、法政大学出版局)というミステリ評論は、些(いささ)か晦渋(かいじゅう)なところのある書物だが、やれフェアプレイだ後期クイーン的問題だと、英米本格史から派生した諸問題に呪縛されて自家中毒を起こした向きには一服の清涼な解毒剤ともなり得よう。何しろ、最も大きく扱われている作家がルルーとシムノンとジャプリゾで、クイーンやクリスティーといった英米本格の大家についてはちょっと触れてあるだけ、というのだからいっそ潔い。いかにもフランス的な自国中心主義(デュボアはベルギー人だが)が鼻につかないこともないが、大乱歩から新本格に至るまで、クイーンとカーに代表される英米本格をミステリの規範(ないしは、乗り越えるべき目標)として意識し続けてきたミステリ輸入超過大国・日本の本格発展史を顧みつつ読めば、我が国にももうひとつのミステリ史があり得たのかも知れない、とも思えてくる。もうひとつのミステリ史――それはまさしく現在の井上夢人の作品群が体現している、コードに縛られない融通無礙(ゆうずうむげ)の小説的可能性に他ならないのではないか。フェアプレイヘの拘(こだわ)りの稀薄さ、アイデンティティ崩壊の感覚への固執、またロジックを暴走させることでユーモラスかつグロテスクな見慣れぬ風景を創るといった面で、井上作品とある種のフランス・ミステリとの間には幾分かの共通点があるようだ。例えばピエール・シニアックの怪作『ウサギ料理は殺しの味』(1981、中公文庫)の中心的ネタは、井上のある作品の題名そのものではないか。
『プラスティック』という小説は多重人格テーマを扱っているが、単なるサイコ・サスペンスではない。細かく腑分けしてみるなら、テーマを生かすためにミステリ史における幾つかの流れを貪欲に取り込んでいることが判明するだろう。まず、探偵、犯人、被害者といった固定的役割が物語の進行とともに融解するタイプのミステリの流れ。言うまでもなく、代表はジャプリゾの『シンデレラの罠』(1962、創元推理文庫)だ。「私がこれから物語る事件は巧妙にしくまれた殺人事件です/私はその事件で探偵です/また証人です/また被害者です/そのうえ犯人なのです/私は4人全部なのです/いったい私は何者でしょう」という、余りにも有名な宣伝文とともに売り出されたこのトリッキーなミステリは、後続の作家たちに絶大な影響を与え、それ故に模倣作や挑戦作が後を絶たないが、難しい綱渡りだけに独りよがりな結果に終わっているものも少なくない。『シンデレラの罠』の1人4役のような趣向が好きだと語っていた井上夢人が、『プラスティック』を執筆するに当たってこの作品を全く意識していなかったとは考えにくい。実際、物語の進行につれて、向井洵子、奥村恭輔、藤本幹也、若尾茉莉子、高幡英世といった各人格は、ある時は被害者、ある時は犯人、はたまた探偵……といった役割を目まぐるしく脱ぎ着する。そして全員が一枚のフロッピーに自分の体験や思考を封じ込めるという行為によって、皆が証人の役割を果たすことになる。『プラスティック』は本格畑からのアプローチとは別の角度から『シンデレラの罠』の1人4役テーマに挑んで、見事に成功を収めた稀有な作例なのである。
 次に、事件を探索している人物自身に事件の原因があるようなタイプのミステリの伝統も、この作品に流れ込んでいる。いちいち作品名を挙げることは控えるが、例えば「事件の謎を解いてみたら、それは自分のもう一つの人格が犯した犯罪だった」とか「自分の過去の何気ない行為が事件の遠因だった」といった類のミステリだ。これは「探偵が事件に対して完全に客観的ポジションを保つことは可能か」という問いにも繋がるので、近年の本格作品にその問いを正面から追求したものが多いけれど、サスペンス小説ではむしろ最後のどんでん返しのためにそれを効果的に導入したものが多い。無論、本書は後者のヴァリエーションである。
 更に、本書は記述者が犯人というパターンの一変形でもある。クリスティーの有名作品が大論争を巻き起こして以降、技術的なヴァリエーションは幾通りも考えられてきているのだが、本書においてはジャプリゾ的1人4役と組み合わせることで、殆どバロック的な怪異極まる演出にまで至っている。
 事件関係者の役割が融解するミステリ、事件の探索者に事件の原因があるミステリ、記述者が犯人というパターンを更に変形させたミステリ……それらはミステリのルールを無効化しかねない危険性を持つ故に、正統派のパズラーやハードボイルドに較べて、ミステリの中核とは見なされにくい。しかし、それらもミステリ史における無視し難い強靭な伝統には違いないのだ。そんな異端の流れを悉(ことごと)く呑み込んで轟然と逆巻く巨大な底なしの滝壺、『プラスティック』とはそういう作品なのではないか。
 
 本書の題名は、人間を「可塑的(プラスティック)な身体と心を持つ生命の総体」として捉えるラストの一文に由来している。しかし、作者が意識しているかどうかは別として、この題名は井上夢人の小説作法そのものを暗示しているように、私には思えてならない。
 この小説のラストに倣(なら)って言うなら――ミステリもホラーもSFも、それぞれ独立したジャンルである。しかし同時に、それらは小説という大きな表現形式の中の「部分」でもある。各ジャンルは、小説が幾世代もかけて融解と凝固を繰り返した結果として生まれたものなのだ。
 ならば、それらを再び融解し、新たなスタイルで再統合を試みようとする井上の作品群は、小説自体が可塑的(プラスティック)なものであるという事実を改めて示しているのではないか。わけても本書は、それが最も見えやすいかたちで前面に出ている作品と言えるだろう。

(1998年8月、ミステリ評論家)