『解説』
田中 博

 井上夢人は、ミステリ界で高く評価されているし、ミステリ批評をしている私も、それを認めざるを得ないが、しかし、井上は、決して“ミステリのためのミステリ”を書いているわけではない。微妙な表現になるが、井上にとって「ミステリのために小説を書くこと」と「小説のためにミステリを書くこと」はイコールで結ばれていて、そこに何の抵抗も感じさせない。誕生以来、近代小説の鬼っ子のように振舞ってきたミステリというジャンルへの関わり方において、これは、驚くべき例外である。
ダレカガナカニイル…』(1992)ではSF的な設定を駆使した謎解きを、『パワー・オフ』(1996)では全世界を覆うコンピュータ・ネットワークを舞台にしたテクノロジー・サスペンスを試みる。会話のみで構成される短編を集めた『もつれっぱなし』(1996)ではユーモラスなディベート・ミステリを成功させ、『メドゥサ、鏡をごらん』(1997)ではホラーへ大きく傾斜し、本格推理小説のパロディともいえる短編集『風が吹いたら桶屋がもうかる』(1997)もあるし、『オルファクトグラム』(2000)は、臭いを“見る”特殊な能力を得た青年が事件に巻き込まれるという、知覚心理学的ファンタジイを基にした青春友情冒険サスペンス小説?……などなど、単なるミステリというジャンルでは収まりのつかない実績を積み上げてきた。1996年から『99人の最終電車』というハイパーテキスト小説をインターネット上で連載する(現在においても未完)など実験的な作品が多いけれども、読者を選ぶことはなく、「異端」とか「マニア向け」といったイメージとは程遠い。読者に馴染みやすいキャラクター設定と洗練された文章……抜群のリーダビリティが、それを支えている。
 敷居は低く、間口は広く、間取りは独創的……それが、井上流エンターテインメントである。この作風は、徳山諄一とコンビを組んで“岡嶋二人”名義のもとに発表された作品群にも共通するものだが、井上夢人としてソロデビューして以来、敷居と間口はそのまま、間取りの工夫に“奥の深さ”が加わってきたように思う。
 この『プラスティック』(1994)も、そういう作品である。どういう話かというと――うむ……できれば、ここで解説を読むのをやめて、本文を虚心に読んで欲しい。ネタバレは避けるつもりだが、綱渡り的に語らざるを得ないほど、『プラスティック』はデリケートな技巧を用いた小説なのだ。後述するように、ネタが割れたからといって「あぁ、そうですか」で済んでしまうような作品ではない。技巧も“技巧のための技巧”にとどまるものではない。その技巧の意味を、読者には考えてほしい。

 一枚のフロッピイディスクに収められ、様々な人物の名前をタイトルとした54個のファイルによって、本書は構成されている。読者は、ファイルを一つずつ開いていくように、それぞれのパートを辿り、本書を読むことになる。
 最初のファイル(向井洵子のパート)には、一人の主婦が経験する怪談めいた分身譚が、日記形式で書かれている。新婚早々ウキウキ気分の、ワープロ練習をかねた文章として始まるが、そこに不穏な影がさしてくる。図書館に行って利用者登録をしようとすると……「あなた向井洵子さん?」「じゃぁ、昨日、手続きをしてるじゃありませんか」と突っぱねられる。そんなはずはない、この図書館に来たのは初めてなのに――。あるいは、夫に連絡をしようと勤め先に電話すると……「あなた、どなたです?」「向井さんの奥さんは声に特徴のある方ですからね」と偽者扱いをされる。そんなはずはない、会社に電話するのは初めてなのに――。一体、どうして? 私以外に、別の私がいるの????
 この日記は中断され、二番目に置かれている高幡英世のパートにおいて、向井洵子が殺されたこと――また、このフロッピイディスクのファイル構成が、ある意図に基づいて事後に編集されていることが記される。ただし、その意図がどのようなものかは隠されたまま、事件は不気味で奇妙な展開をみせる。三番目に置かれているのは、小説家志望の奥村恭輔のパートで、このフロッピイディスクを入手した不思議な経緯と、そこに書かれていた内容の検証が行われていく。その後、様々な名前の下に記された手記が折り重なっていくのだが、死んだはずの人間が生きていたり、人物の入れ替わりが仄めかされたり、ある手記の中で“事実”とされているものが、他の手記の中ではアッサリ“虚偽”として否定されたり――矛盾が乱反射するように、それぞれの手記に反映して混乱に拍車がかかる。時折り挿入される高幡のパートは、事件が一応の決着をみた後に書かれているわけだから、ちょっと特殊であり、“事実”の地平を示して状況を整理してくれるのだが、前述した“隠された”意図によって、事件の真相は物語の後半まで明らかにされない。様々な視点の錯綜が迷宮を構築していくのだ。
 物語の出発点は、前述したとおり向井洵子の分身譚である。ドッペルゲンガー(Doppelganger)=分身を扱った小説は昔から多い。有名なところでは、エドガー・アラン・ポオの「ウィリアム・ウィルソン」(1839)、芥川龍之介の「歯車」(1927)などがある。近代以降の小説において「自意識」と「他者からの認知」のズレを巡る問題は、教養小説とか、幻想小説とか、私小説とか、様々な形をとって執拗に追求されてきた。ミステリというジャンルでは、象徴的な形になるが“変装”とか“一人二役”などのトリックとして扱われてきたし、また、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』(1942)で、主人公がアリバイの証人として持ち出す“オレンジ色の帽子をかぶった女”が、誰にも認知されていなかった――という不条理サスペンスも、その変奏といえるだろう。『プラスティック』においても、謎の裏面にミステリ的な仕掛けが施されているが……この解説でネタを割るわけにはいかない。

 で……奥歯に物が挟まったような遠回りの譬え話で、お茶を濁そう。
 私に対して斜めに置かれた鏡の中に、あなたの視線を見つけて、鏡越しにアイコンタクトを交す……そんな時、私の見ている鏡にはあなたが映っているし、あなたが見ている鏡には私が映っている。つまり同じ鏡に、全然別の像が同時に映っている。もちろん、それは合成したり結合できるものではない。私の見ている像と、あなたが見ている像は、あくまで別個のもので一つにまとめられない。「その鏡に何が映っているのか」という“事実”について、一義的な回答は用意されていない。つまり、鏡は、任意の視線にさらされ、任意の像を映している。客観的に映っているものを見るのではない――見るから映るのだ。鏡に映る像を確定するには、何者かが鏡を見る必要がある……誰かが、ある方向から鏡を見ることによってしか、その限りにおいてしか鏡の像は確定できない。
 それでは、誰も見ていない鏡には何が映っているのか? これは、だからナンセンスな問いなのだが――強いて答えれば「何も映っていない」。こうして原稿を書いているこの部屋の、今は無人の洗面所にある鏡には「何も映っていない」……映っているものを確定する視線を欠いているのだから。そして、私が洗面所へ行き、ドアを開け、鏡を見る瞬間に、そこに突如として像が結ばれる……。
 鏡の像は、幻覚ではない。知覚可能な事実で、写真にも撮れる。もちろん写真も一つの視線なのだが……ともかく、ちゃんとした形のあるものが、その存在の有無が一つの視線によって決定されている。誰かが「見るか・見ないか」ただ、それだけで、世界は劇的に変容する。
 そんな任意の視線が錯綜して、私たちの現実は形作られている。鏡の像と同じく、それぞれの人が見る世界の像は、それぞれに異なっている。足し算や、割り算や、平均値や、多数決で“客観的”世界が算出できるわけではない。もちろん世界の像は多様でも、根元は一つである。日常的には“落着きどころ”みたいなものがあって、世界はバラバラになったりしないし、とりあえず“一つの世界”をみんなが共有していることになるわけだが、実は、様々な綻びが潜在し、危ういバランスがそれを支えていて、実際、そんな齟齬が、しばしば重大なトラブルを引き起こす……それが“現実”というやつだ。
『プラスティック』は複数の視点から記される手記で構成され、そのズレが謎物語の推進力となっている。現実の隙間の、その煮詰まった所に「ミステリ的仕掛け」を差し込み、読者の日常を揺さぶる小説である。 勘のいい読者は、早い時期で“仕掛け”に見当がつくかもしれない。しかし、その真相が明らかにされるのは、全体の四分の三あたりである。その後も物語は展開し、井上は、さらにヒネリを加えている。むしろ、仕掛けの明かされた後が、この小説の肝心な部分なのである。
 最後まで読み通した読者は……まさに、この小説が“あなた”のために書かれていることを思い知らされるだろう。そして、その衝撃が「ミステリ的仕掛け」に折り返され、「何故、フロッピイディスクに収められたファイルの形で構成されているのか?」という小説自体がはらむ謎の中心に直結している。
 最終ページは、こう問いかける――“あなた”は、一体、誰ですか?