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2017/01/20
井上夢人 雑文

高橋克彦『南朝迷路』文庫解説 ── 井上夢人

 数少ない文庫解説の中から、高橋克彦さんの本に書かせてもらったものをご紹介します。
 書いたこと、すべて実話です。

 
 
高橋克彦『南朝迷路』 文庫解説
                                  井上夢人


 のっけから私事で恐縮だが、以前、僕のところに歴史ミステリーを書かないかという依頼が来たことがある。依頼の主は歴史を専門にした月刊誌の編集者で、彼は、ある歴史上の人物をテーマに短編小説を書いてほしいと言った。
「冗談でしょう? 僕は歴史物なんて書いたことないんですよ。第一、僕には歴史の素養がまるでない」
「いえ、必要な資料などは、こちらですべて揃えますから」
「理解していらっしゃらない。あのね、資料を揃えてもらっても、その資料を読みこなす基礎知識が僕にはないと申し上げているんです。だいたい、僕は、安土桃山と室町のどちらが先かってことさえ、よくわかってない人間なんですよ」
 僕が冗談を言ったのだと思ったらしく、編集者は電話の向こうで、あははは、と笑い声を上げた。冗談でも謙遜でもない。本当にそうなのだ。書けない、ということを再三再四説明して、僕はその依頼を断わった。
 この『南朝迷路』の冒頭で、チョーサクとリサが似たようなやりとりをする。チョーサクは、僕とは比較にならないほどの〈素養〉を持っているから「歴史は得意な方じゃねえんだよ」と口では言っても、リサの企画に乗ることができた。実際、彼は隠岐(おき)の島で一夜漬けの猛勉強をやって、リサを驚かせるほどの知識を頭に叩き込んでしまうのである。
 ある程度の基礎知識を持っていなければ、一夜漬けをしたところで身になるものではない。僕が歴史の資料を読むとなったら、はじめの数行もいかないうちに、中学校の教科書を引っぱり出さなくてはならなくなるだろう。チョーサクのような芸当は、僕には到底できない。
 もちろん、目利きの編集者が、作家の新しい可能性を発掘することはあるし、それによって埋もれていた才能が開花するということも稀には起こる。だけれども、それは「書いて下さい」「はい書きました」という具合に起こるものではないのである。雑誌の次の締め切りまでに開花するような才能なんて、どこにもない。花を咲かせるには、まず種を蒔くことからはじめなくてはならないのだ。歴史ミステリーなら、なおのことだ。
 そのことを僕に示してくれたのが、他でもない、高橋克彦さんだった――。

 高橋さんは、1983年に『写楽殺人事件』(講談社)で江戸川乱歩賞を受賞し、作家デビューを果たした。その年の暮れ近く、僕は高橋さんの訪問を受けた。授賞式の日に会場で挨拶を交わしたものの、ちゃんとした話をするのは、この日が初めてだった。
 この時の高橋さんの話で、僕は大きなショックを受けた。受けたショックは二つあった。
 僕がビートルズの大ファンだという話をすると、高橋さんはこともなげにこう言った。
「僕、ビートルズには、直接会ったことがあるんですよ」
「…………」
 それは、許しがたい発言だった。
「高校生のときでしたけど、ロンドンに遊びに行って、舞台に上げてもらって、彼らに握手もしてもらったんです」
 高橋さんは、白くて丸い顔に、ほんのちょっぴり照れた笑いを浮かべながら、僕にそう言った。首を締めてやりたい気持ちを、すんでのところで僕は抑えた。
 後に、やはりビートルズ・フリークの島田荘司さんにこの話を聞かせたとき、彼の顔にも殺意が浮かんだ。
「握手してもらったって、偉くねえよなー」
「ふざけんじゃないよなー」
 僕と島田さんは、そう言い合って、お互いを慰めた。
 1983年の暮れに、高橋さんの話から受けたもう1つのショックは、作家にとって、もっと根元的なものだった。
 当時、高橋さんは、江戸川乱歩賞受賞後第1作の長編の準備にかかっていた。
「明治時代のロンドンにあった日本人村を舞台にして起こる連続殺人事件の話なんです」
 彼についてきた編集者が、横でうなずきながらつけ加えた。
「取材が大変なんですよ。先日も、上野精養軒の料理を再現してほしいってことになって」
「……料理?」
 見返すと、高橋さんはニコニコ笑いながらうなずいた。
「明治に開業した当時の精養軒の料理が、どういうものだったのか知っておきたいと思ったもんですから」
「料理が、トリックか何かに関係してくるんですか?」
「いえ、そういうんじゃないですけど、小説中でその料理を登場させるのに、どんな味かもわからないで書くのが不安だったですから」
「へえ……すごいですね」
「一応、当時そのままってことで、材料もできる限り当時のものを揃えてもらって、料理法も、今のやり方じゃなくて、その当時にやられていた方法で作ってもらって」
「……そこまで?」
 僕は、次の言葉を失ってしまった。
 同時に作品を読むのが楽しみになった。それだけ入念な取材をして書かれた小説がどのようなものになるのか、僕は高橋さんの受賞第一作の完成をひたすら待った。
 ところが――。
 その作品はなかなか仕上がらなかった。『倫敦(ロンドン)暗殺塔』(講談社)という、その小説が出版されたのは、それから1年以上経った1985年の3月だったのだ。高橋さんの受賞の翌年、鳥井加南子さんが江戸川乱歩賞を受賞したが、高橋さんの『倫敦暗殺塔』は、その鳥井さんの受賞第1作と同時に出版されるという前代未聞のことに相成った。
 なるほど、あれだけの取材をすれば、時間もかかるよなあ……僕は単純にそう思った。
 しかし、その作品を読んで、僕はさらに驚いた。
 例の上野精養軒の料理の記述は、小説中、たった2,3枚程度しか存在していなかったのだ。
 僕も、一応、小説を書いている人間で、作品中のディテールにはこだわりを持っているほうだと自分で思っているが、主人公が食べる料理の描写2,3枚のために、百年前の材料を探し集め、当時の料理法を再現してもらい、実際にそれを食べてみるなどという取材はやったことがない。
 後に、高橋さんは彼の小説作法を開陳した『小説家』(実業之日本社)の中でこう語っている。

 スペースオペラを書くにしても、ロケットに乗って宇宙に行く話を書くときに、やはり作者がロケットがどういうふうにして飛ぶかということを一応把握していないと、ほんとうは書けない。
 ところがロケットの構造を知らなくても、SFだからということで平気で書いちゃう人がいるわけです。

 もちろん、これは体験主義とは違う。高橋さんも、この『南朝迷路』の中で、チョーサクに「だから、想像力の問題だって。行かなきゃ書けねえなら、人を殺さんとミステリーは書けない理屈になる」と言わせている。
 むしろ、作家の作品に対する姿勢の問題なのだ。百年前の料理法が詳述されるわけではない。ロケットの操行技術が語られるわけではない。小説上に、そんな描写は1行として現われない。しかし、書き手はそれを知っておく必要がある。登場人物の過去が一切語られないとしても、作者はその人物が歩んできた半生を俯瞰できる位置に自分を置いておかなくてはならない。なぜなら、厳密に言えば、その人物が辿ってきた人生によって、彼の行動や言葉遣いは、百人が百人、違うはずなのだから。
 高橋さんの、作家としてのこだわりが、そこにある。そして、それは〈歴史〉というものを小説の上に載せるときに、高橋さんが常にとってきた姿勢なのだと、僕は思う。

 以前から思っていることだけれど、どうして学校では歴史の時間にミステリーを読ませないのだろうか。
 何年に誰々が天下を統一したなんて史実を暗記させられて、イイクニ造ろう鎌倉幕府、などと呟いているうちに、歴史はどんどん面白くないものになってしまう。僕にはまるで、学校が歴史の面白さを子供たちから隠そうとしているように思えてしかたがない。
 歴史の面白さとは、ミステリーの面白さなのではなかろうか。
 歴史上のある人物が、巨大な仏像を造らせた。彼は、なぜこんなものを建造したのか?信仰心だけでは説明がつかない。そこには、もっと切実な、理屈の通った事情が存在していたはずだ。それを解きあかすことは、そのままミステリーにおける動機の謎を探る経緯に置き換えることができる。
 歴史上の英雄の所在が、ある一時期だけ不明とされていた。その数年間、彼はどこにいたのか? なにをしていたのか? それを考えることは、アリバイ崩しに通ずる興奮を、僕たちに与えてくれる。
 そして、これまで固定されていた歴史観を逆転して捉え、歴史に新しい視点が与えられる瞬間は、ミステリーのラストに用意されたドンデン返しそのままだ。
 歴史の謎を追う主人公たちの思考は、事件の真相を追求する名探偵や敏腕刑事の行動同様、スリリングで、サスペンスに富んでいる。
 学校で、歴史ミステリーを読む時間が与えられたとしたら、歴史を好きになる子供がかなり増えるんじゃなかろうか。
 ミステリーに書かれていることが史実に沿ったものであるかどうかは、また別の問題だ。重要なのは、史実よりも、むしろ歴史を検証する面白さそのものだろう。歴史ミステリーを読んで感じる興奮こそ、僕は、歴史を学ぶ本質のような気がしてしかたがないのである。

 歴史ミステリーは、4次元の小説だと僕は思う。
 この『南朝迷路』もそうだが、歴史ミステリーの多くは、現代に生きている主人公たちから、遠い過去を透視するという多元構造によって作られている。至近距離にある主人公たちの行動と、その遥か向こう側に拡がる数百年前の壮大な物語――その異次元の世界が、ミステリーという装置によってつなぎ合わされる。
 そのパースペクティブは、大宇宙にも匹敵する空間を、読んでいる僕たちの前に出現させてくれるのだ。
 そして、その面白さは、小説中のたった2,3枚だけで語られる食事場面について、百年前の料理を作者が実際に味わってみるような、そんな裏付け取材に基づいて生み出されているのである。
 高橋さんの代表作の1つ『総門谷』(講談社)について、前述の『小説家』には、それを書くために集めた資料が、2つの本棚を埋め尽くしてしまったと書かれている。もちろん、たくさん資料を読んだからといって、それで良い小説が出来上がるというわけではない。小説の核となるものは、資料とはまったく別の場所に存在しているものだ。しかし、1冊の本を書くために本棚2つ分の資料を集めたり、百年前の料理を食べてみるという作者の姿勢があってはじめて、高橋克彦小説のあの吸引力が生まれるのだろう。
 僕に歴史ミステリーを書けと言った編集者は、そのあたりのことがわかっていない。必要な資料はすべて揃えると彼は言ったが、僕が歴史ミステリーを書けるようになるまで、何年でも待つとは言ってくれなかった。その何年もの間、本棚のいくつかが埋まるほどの資料を集める手伝いをしようと言ってくれたわけではなかった。彼が考えていたのは、おそらく多くても数冊の書籍と、研究論文か何かのコピー数枚程度の資料を送ればいいといったところだったろう。それで、次の締め切りには、数十枚の短篇原稿が出来上がると思っていたのだ。
 歴史ミステリーは、それほど簡単に書けるものではない。

 文庫の解説で、その小説自体を紹介するようなヤボはしたくない。お話は、本文を読んでいただくのが一番。ひとことだけ解説めいたことを書き添えれば、この『南朝迷路』は、異色青春ミステリー小説『パンドラ・ケース』(文藝春秋社)に続く物語として1989年に書かれた作品である。前作のエピローグから半年後という設定だ。
 前作をまだお読みでない読者には、是非一読をお勧めする。そしてさらに、この『南朝迷路』に続く『即身仏(ミイラ)の殺人』(実業之日本社)も。