Junkyard

 

2017/01/07
井上夢人 雑文

ハイパーテキスト小説への期待(4) ── 井上夢人

 最後です。
『99人の最終電車』は、確実に自分の小説家としての基盤(少なくとも、その片側の基盤)となった作品だったと思います。DVD化しようと頑張ったのですが、それが叶わなかったことが淋しい限り。仕方ないことですけれど。
 現在もWeb版は、《www.shinchosha.co.jp/99/》に置かれています。興味がおありになる方は、読んでみて下さい。

 
 
ハイパーテキスト小説への期待(4)
                                      井上夢人

(承前)
 ハイパーテキストは、その1つ1つのリンクを取り出せば、いたってシンプルなシステムである。しかし、ほんの少し前に流行にもなってしまったカオス理論が示す通り、複雑な形態は単純なものの組み合わせによってできている。
 ハイパーテキスト小説の書き手にとって重要なのは、この1つ1つのリンクが単純な構造でできているということなのである。小説を書くためには、ある種の「勢い」が必要だ。単純であるからこそ、勢いに乗って書き進めることができる。
 そして、書きながら再確認できたのは、やはりハイパーテキストが、人間の思考に似通っているということだった。
「脚注」というのがあるが、ある部分、ハイパーテキストのリンクは脚注に共通するものを持っている。事実、脚注として使える。
 しかし、明らかな違いはハイパーテキストが脚注の中からまたべつの脚注を呼び、さらにその脚注からもべつの……と無限に続く連鎖構造が可能であること。そして、脚注の場合は、本文⇒脚注、という親子関係が存在するが、ハイパーテキストではどのファイルも親になり得るということだ。
 人間の思考は、まず、とりとめもなく連想や飛躍を繰り返して様々な断片を自分の周囲にまき散らす。あるところまでくると、今度はその断片同士をつなぎ合わせたりグルーピングを行なったりして、それらを1つの流れの上に載せようと試みるのだ。
 夢の再構築がそのいい例である。夢は非常に断片的でとりとめもないものだが、私たちは目が覚めた後、その夢を無意識のうちに組み合わせ、1つのストーリーにまとめ上げてしまう。それが人間の思考なのである。
 ハイパーテキスト小説でも、読者の頭の中で同様の作業が繰り返される。読者は、断片的な1つ1つのページを読み進みながら、それらを自分の想像力や経験や期待によって再構築を行なうのである。
 もちろん、それは従来の小説を読むときにもなされていることだが、ハイパーテキスト小説では、もっと直接的に、よりダイナミックに行なわれているようなのだ。
 たとえば『99人の最終電車』には、宇宙人や、幽霊といった現実離れした登場人物も乗り合わせている。これは、ある人物を通して読むとミステリー小説になり、べつの人物ではホラー小説、また他の人物ではSF小説、恋愛小説、心理サスペンス、ブラックコメディ──という多層的な構図を試みたために起こったことなのだが、これが読者にはまた違った効果をも生んでいるらしい。恋愛小説の登場人物の隣に宇宙人が乗っていることに、読者はほとんど違和感を感じていない。おそらく、それは読者の再構築の力なのだろうと思われる。
 従来の小説では混乱を起こしてしまいそうな人物たちが交錯していても、ハイパーテキスト小説を読む読者は、読み進むうちに自然にそのすべてを取り込んでしまうのである。
 そもそも、私たちは毎日の生活の中で、常にそれと同様の処理を行なっている。周囲の雑多な出来事や情報や人間関係を、すべて自分を中心とした世界にまとめ上げ、認識するという、かなり複雑な作業をこなしているのだ。
 ハイパーテキスト小説は、そういった現実世界のシミュレートといった側面も持っているのかもしれない。

 むろん、ハイパーテキスト小説は多くの問題点も抱えている。
 現在私が感じている問題点のいくつかはメディアの未成熟に発していることであり、他のいくつかは読者がこの試みに対して不慣れであることに起因している。
 現在、インターネットのウェブ・サイトを閲覧するためのソフトウェアは、日本語の文章を読むにはいささか問題が多すぎる。漢字やひらがなやカタカナは、本来縦組みで書いたり読んだりすることを前提にデザインされている。横組みの印刷物もかなり多く存在するが、そこでは横組み用の活字がデザインされ、読みやすさの考慮が払われているのである。パソコンのために用意されている日本語フォントには、そういった考慮がほとんどなされていない。つまり、ディスプレイ上で横書きの日本語の文章は読みづらいのだ。
 さらに、通信回線の貧弱な点も、読みにくさを増大させている。インターネットへのアクセスには、常にストレスがつきまとう。回線が混み合っていると、ページ1つを表示するのにかなりの時間を要してしまう。このストレスは、小説を楽しむには障害にしかならない。
 また、読者には従来の小説を読むときの常識がある。電子メールで寄せられた感想に「どの順番で読むのが一番いいのか、それを提示してほしい」というものがあった。その読者は、当然、作者にはベストの読み進み方が用意されているのだろうと考えていたようだ。「面白くない読み方をしてしまったら、損だから」と、その読者は付け加えていた。
 前例のない試みであるだけに、読者にも戸惑いはある。たとえば、マンガを読み慣れていない人は、不定形に並べられた絵をどのような順番で見ていけばよいのか判断できない。テレビゲームをやりつけない人は、コントローラーを手にしても、なにをしていいかすらわからない。
 若い年代の読者は、すぐに自分なりの読み方を見つけてくれるようだが、ある年代以上になると「どう読めばいいのか」という拒絶反応のほうが先に立つようだ。
 そういった数々の問題は、しかし、時間が解決してくれるものだ。いまやコンピュータやネットワークの技術は、すさまじい勢いで進化を続けている。読みやすい日本語を表示する閲覧ソフトもすぐに登場してくるだろう。日本には、現在何百万台というパソコンが存在しているのである。

 正直なところ、連載を開始する前は、かなりの不安があった。
 こういった試みを、果たして受け入れてもらえるのだろうか。アクセスしてくれる人など、ほとんどいないのではなかろうか。全精力を傾けて書いても、やはり人は「余技」としてしか見てくれないのではあるまいか。
 だが、1年あまりの連載を続けてきて、それはどうやら杞憂であったらしいと思えてきた。
 読者の数は、減るどころか増えている。普段は小説を読む習慣を持っていないのだが、これだけは毎週読みにきているという反応もかなり多い。
 現在の連載が、私自身にとっても初めての試みである。たった1年程度の経験では、しかもまだ最初の作品すら完結していない現在では、なにもかもが未知数だ。自分の考えてきたことが、現在の作品にすべて反映できたわけでもない。
 しかし、少なくとも、ハイパーテキスト小説というものが存在し得るのだという感触だけは、手にすることができたのではないかと思っている。
 なによりも、自分自身にとって心強いのは、書き進めば進むほど、ハイパーテキスト小説の可能性が拡がってきていることだろう。どうやら、単なる「余技」や一時的なイベントで終わることもなさそうだと、ようやく思えてきている。
 グーテンベルグの発明した印刷機が小説を変えたように、コンピュータとネットワークのテクノロジーが、もう1つの変化を与えてくれることを期待している。