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2017/01/05
井上夢人 雑文

ハイパーテキスト小説への期待(1) ── 井上夢人

 1996年から2005年にかけて『99人の最終電車』というWeb小説を連載しました。その連載開始から1年が経ったころ、「日本語学」という雑誌に『99人の最終電車』について書いてくれないかという依頼がありました。この「日本語学」は、日本語の研究者、国語教育者向けの学術雑誌なのです。学術誌に書くなどということは初めてですし、そんな素養も持ち合わせていないのですが、「ま、いっか」と書いたのが「ハイパーテキスト小説への期待」という論文めいた一文でした。明治書院『日本語学』1997年6月号に掲載されたものです。
 やや長めのものですので、4回に分けてお読みいただこうと思います。
 掲載誌が見つからないので、画像は本文とは無関係です。

 
 
ハイパーテキスト小説への期待(1)
                                           井上夢人

 ある小説を2人が読み、片方はそれを面白かったと言い、もう片方はつまらなかったと言う──珍しいことではない。どんな小説でも、それを面白く読む読者とつまらなく読む読者が存在する。名作や傑作と呼ばれる作品は、面白く読んだ人間が数多くいたというだけのことで、その作品をつまらないと評する者も必ず存在する。
 当たり前のことではあるけれども、これは非常に興味深い現象だ。
 100円玉の価値というものは、誰にとっても同じである。通常、ある人にとっては500円の価値を持っているのに、他の人にとっては20円の価値しか持たない100円玉は存在しない。だがここに、べつの要素を加えると話は違ってくる。
 オリンピック記念硬貨というものが発行されたことがある。この記念硬貨も、自動販売機に投入すれば、やはり100円の価値しか持たない。私自身は古銭の流通価格に関する知識を持たないが、しかしこれをコイン業者のところへ持っていくと150円で買ってくれたりする。コイン収集家なら、200円で譲ってくれと言うかもしれない。
 私たちの財布やポケットに入っている普通の100円玉とオリンピック記念硬貨の違いはなんだろうか。その違いを付加価値と呼んでみることにしよう。付加価値には、プラスとマイナスがあり、もともとの値段を上げたり下げたりする。5年間使用した自動車は購入時の何分の1値段でしか引き取ってもらえない。しかしそれが100年前に生産の打ち切られた車なら、何10倍もの付加価値を得ることもある。
 だとすると、こういうことが言えるのではないか。小説は、ほとんどその付加価値だけで存在している商品なのだ、と。
 作者の原稿料や印刷代、紙の値段や人件費といった原価はあるものの、それらは小説本来の価値[=面白さ]とはまるで無縁のものである。単行本で2000円の小説が数年を経て文庫になったとき、500円の定価がつけられていたりするが、その小説の面白さも4分の1に下がってしまうわけではない。古本屋の軒先で山積みになっている50円均一の平台から買ったところで、面白い小説はやはり面白いのである。
 では、その小説の価値とは、いつの時点で決定されるのだろうか。
 それはおそらく、小説家が原稿を書き終えたときではない。印刷所が定価を刷り込んだときでもなく、書店のレジがチンと音を立てたときでもない。小説の価値は、読者がそれを読み終えた時点で決定されるのだ。
 読者を想定しない小説というものは存在し得ない。むろん、誰に読ませるためでもなく書かれた小説もあるが、そんな作品にしてもたった1人の読者は存在している。それは作者自身という読者である。そして、小説は、読者の存在によってはじめて成立するものだと私は思う。
 100人の読者に対して、小説は100種類の異なった価値[=面白さ]を生み出すが、同時に同一の読者の中にも読んだときに応じて違う価値を生む。子供のころに読んだ小説を数10年経って読み返してみたとき、まったくべつの感動を覚えたり、なぜこれを面白いと感じたのだろうと不思議に思ったりするのはよくあることだ。数10年という時を経なくても、1つの小説を何度も読み返してみれば、そのときどきで「面白さ」が微妙に変化しているのを実感することは容易である。
 つまり、小説の価値というものは、それほどまでに不安定でつかみどころのないものなのだ。しかし、そのつかみどころのない面白さこそ、小説の本質と言えるのかもしれない。
 小説を小説として決定しているのは作者ではなく、読者である──私は、そういうスタンスで、これまで小説を書き続けてきた。

 12年ほど前に、ゲームブックと称するものを書いたことがある。
 ゲームブックについてはご存じの方もたくさんいらっしゃることだろうが、簡単に説明すれば、ロールプレイング・ゲームを1人で遊ぶことができるように1冊の本に閉じ込めたものである。
 この本の読者には、通常の小説を読む数倍、数10倍の労力が要求される。12ページを読んだ次には98ページを読まなければならず、そしてそこを読み終えると8ページへ戻るという具合に、ひっきりなしにページを前へ後ろへ繰り続けなければならない。さらに、ページを繰る前には、次にどこのページを読むかという判断を迫られ、あるいは儀式めいたサイコロの出目を読むという作業まで強制されるのだ。
 読者の判断やサイコロの目によって、ゲームブックのストーリーは次々に変化する。同じものをもう1度読み返しても、意識してそうしない限り、前に読んだものと同一のストーリーは得られない。
 そもそも、小説とは最初のページから読み始め、順序よく最後のページまで読み進むものである。読者の中には、ときに小説の最後を先に読み、結末を知ってから安心して頭へ戻って読み始める人もいるようだが、これは小説の読み方としては邪道である。作者も、そのような読み方を想定して書いているわけではない。
 ところが、このゲームブックは、順序よく読むという小説の基本的なルールをハナから無視しているのだ。読み終えたとき、1度も開くことのなかったページさえ、その本の中には存在しているのである。
 この従来の小説とはかなり異なった性格を持ったゲームブックとの出会いは、私に大きな興奮をもたらすことになった。

(続く)