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2016/12/30
井上夢人 雑文

視点の方法(4)── 井上夢人

 第4回が最終回です。
 小説上の「視点」の捉え方、扱い方は、人それぞれだと思います。ここで取り上げたのは僕の「視点」の基本的な部分ですが、応用していただくこともできるだろうと思います。
 最後のまとめとして、「界面活性剤としての視点」という捉え方をご披露します。

 
 
視点の方法(4)
          井上夢人

(承前)
■界面活性剤としての視点
 そもそも、文章でイメージを伝えるのは不可能だと、僕は考えています。物の形や色、空間の奥行き、音、肌触り、匂い、味など……文章で正確にそれを表現することは不可能です。
 たとえば、目の前に咲いている名前も知らない花を文章で描写し、それを誰かに読んでもらって下さい。その人に絵筆を渡し、読んだ文章からイメージする花の絵を描いてもらって下さい。自分が見たものとは、まったく違う花がそこには描かれるだろうと思います。その花の形や色を伝えたいのなら、写真を撮ったほうが確かです。たった1枚の写真に、文章は負けてしまいます。
 本来、文章は、そういうものを伝えるための道具ではないのです。
 ところが、名作と呼ばれる数々の小説は、その不可能なことを可能に変えてきたように思えます。イメージを豊かに伝える小説が、数多く書かれてきました。
 なぜそのようなことができるのか──そこにも〈視点〉は一役買っているのです。
 そこで使われているのは、文章が持っている想像力の喚起という機能です。文章は、脳に取り込まれたとき、蓄積された膨大なイメージの検索キーとして機能します。読者は、自分自身の過去の体験から、文章に誘発されたイメージを取り出し、再体験を試みようとします。提示された検索キーが適切であれば、読者は、文章の中に自分のイメージを投影することが可能になるのです。
 つまり、小説を読んで、イメージを作り出しているのは作者ではなく読者なのです。小説中の文章は、読者がイメージを作り出すための手助けをします。
 イメージの浮かべやすい文章と、そうでない文章を比較してみて下さい。そこに〈視点〉の存在が確認できるだろうと思います。〈視点〉を意識して書かれた文章は、読者を登場人物と同化させやすくします。
 たとえば『メドゥサ、鏡をごらん』という作品で、僕は、主人公を小海線という単線の電車に乗せました。石海駅という架空の駅で下車させるのですが、ここで僕が書くべき事柄は次のようなものでした。

 畑の中を単線の線路が走っている。石海駅は、線路脇のホームだけが置かれた無人駅である。車掌に切符を渡し、私はその駅に降り立つ。

 単にこれだけのものなのですが、架空の場所であるだけに、読者にはある程度のイメージを持っていてほしいと考えました。書いたものは、次のようになりました。

 駅のホームに降りて、私はいささか戸惑った。その駅には、改札も、切符売場も、駅舎さえ見あたらなかったからだ。私が立っているのは、単線の線路脇にぽつんと取り残されたような細長い石台の上だった。目を上げると折り重なるような段々畑が続いている。その向こうは八ヶ岳だった。
「乗車券をお願いします」
 呼ばれて、後ろを振り返った。同じ車輛に乗っていた車掌だった。私はあわててバッグを探り、切符を取り出して車掌に渡した。
「無人駅なんですよ」
 車掌が、ニコニコ笑いながら言い訳するように言った。

 この文章から、主人公が駅を降り立ったときのイメージを、読者が描いてくれればいいのですが……。
 ある意味で〈視点〉とは、読者に対して界面活性剤のような働きをするものではないかと、僕は考えています。そもそも異質で混じり合うことのない文章とイメージから、その境界面を消し去ってしまうような働きをするもの。
 基本的な技術ではありますが、〈視点〉は、かなり奥の深いものだと思うのですね。

(終)