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2016/12/23
井上夢人 雑文

東野圭吾『手紙』文庫解説 ── 井上夢人

 文庫の解説は、いただくばかりでほとんど書いた経験がありません。こういうものが苦手だということはおわかりいただけていますので、そもそも依頼されることもあまりないのです。
 そんな中で、解説を書かせてもらった数少ない1つが、東野圭吾氏『手紙』の文庫解説です。

 
 
東野圭吾『手紙』 文庫解説
              井上夢人


 英国BBCテレビで「A Day In The Life」と題するドラマが製作されたことがある。
ずいぶん昔のことだ。主人公は故ジョン・レノン。その重要な主役を決定するオーディションで、主人公役はジョンと風貌が酷似している無名の俳優が選ばれた。
 ところが、この決定は、ジョン・レノンの妻ヨーコによって覆された。理由は、主役に選ばれた役者の本名だった。オーディションの時には芸名を使っていたのだが、後になって彼の本名は「マーク・デイヴィッド・チャップマン」だということが明らかになったのだ。それは、ジョン・レノンを殺害した犯人とまったく同じ名前だった。
 言うまでもなく、この俳優に落ち度はない。演技がどうしようもなく下手くそだったわけでもない。もちろん、彼自身はジョン・レノン殺害事件となんの関わりもない。ただ、本名がジョンを殺した男と同じだということを、スタッフたちに告げていなかっただけのことだ。俳優が芸名を名乗って悪い理由はない。芸名で仕事がしたいのだから、オーディションも芸名で応募した。いたって自然なことだ。しかし、彼は役を外された。
 マーク・チャップマンは、殺害犯とは赤の他人だった。にもかかわらず、彼は職を奪われることになった。彼自身は、その決定をどのように受け止めたのだろう──。
 東野圭吾氏の『手紙』を読みながら、僕はこのエピソードを思い出していた。ジョン・レノンの傑作「イマジン」が、小説の全編にわたって重要なキーワードとしてちりばめられていることも、その連想を促したのかもしれない。しかし、それ以上に本書が僕にこのエピソードを想起させたのは、ヨーコ・オノ・レノンが世界に向かって訴えた言葉を読んでいたからだと思う。ジョンが暗殺されてほぼ1ヵ月後の朝日新聞朝刊に、ヨーコは意見広告を全紙大で載せた。長文の中に、次のような1節がある。

 私はジョンを護れなかった自分自身にも怒っています。私は、社会がこれ程までにばらばらに砕けるままにまかせていた自分自身、そして私たちすべてに対しても腹を立てています。もし何か意義のある「仕返し」があるとすれば、それは、愛と信頼に基礎を置く社会に、まだ間に合ううちに方向転換させることだと思います。

 毅然としていて、かっこいい。ジョンを失って1ヵ月しか経っていないのだ。未亡人になったばかりの女性の言葉とは思えないほどかっこいい。
 しかし、そのヨーコは、数年後、亡夫役に選ばれた俳優を、本名が「マーク・チャップマン」だというだけのことで馘首にした。「言ってることと、やってることが違うじゃん」と、つい、ツッコミを入れたくもなる。まあ、「それが『意義のある仕返し』ってワケ?」などと、ヨーコに皮肉を言うつもりはないが。
 ただ、ふと考えるのだ。じゃあ、僕だったらどうするのか、と。ヨーコの身になって考えてみれば、チャップマンを馘首にした気持ちがまるで理解できないわけではあるまい。
 実は、それが本書『手紙』のテーマである。
 同姓同名というだけのことで、チャップマンは理不尽な解雇を言い渡された。しかし、もし彼がジョンを殺害した犯人の身内であったとしたら、事態はどのように変わったのだろうか──それが、作者が本書で投げかけている問いなのだ。
 重い話である。
 強盗殺人犯を兄に待ったことによって人生を狂わされてしまった弟の、あまりにも苛酷な境遇が、抑制のきいた文章によって綴られていく。
 真綿で首を絞めるという表現があるが、この小説は読者にそのような迫り方をする。現実を直視せよ、と物語は読者に語りかける。決して脅迫するような調子ではない。物語は、むしろ静かに淡々と語られる。
 作者は、最初から最後まで、テーマを1歩も踏み外すことなく筆を進める。繰り返されるテーマの変奏曲が、次第に読者の気持ちを沈めていくのだ。そのテーマを象徴するように、ジョン・レノンの「イマジン」が使われている。
 そもそも、この小説の構成は、きわめて音楽のそれに似通っている。深読みのしすぎかもしれないが、作者は意識的にそんな構成を選択したのではないか。
 ショッキングではあるけれど、どこか物悲しい主人公の兄による序曲を終えると、重苦しいテーマが静かに流れはじめる。テーマは、少しずつ形を変えながら、繰り返し、繰り返し読者を奈落の底へ誘い続ける。
「イマジン」の中で、ジョン・レノンは《すべての人々が、等分にすべてを分かちあえる世界を思い描いてごらん》と歌う。そして《絵空事だと言われるかもしれないけれど、いつか君も僕たちに加わって、世界が1つになることを願っているんだ》と結ぶ。
 にもかかわらず、主人公が置かれた境遇は、すべてのものを彼から奪っていく。奪い続ける。そして、それに伴って、「イマジン」というキーワードの持つ意味合いが変化していく。主人公が好きだった「イマジン」を歌うことさえ、彼を取り囲む人間たちは奪い去っていくのだ。
 この小説が周到であるのは、告発する相手を我々読者自身に向けていることだ。作者は、物語の至るところに鏡を用意して待っている。読者は、ギクリとしながら、鏡の中で立ちつくしている自分を見せつけられることになる。
 ほとんどの人は、自分は差別などとは無縁だと考えている。世の中に存在する差別に対して怒りを覚え、嫌悪を感じることはあっても、自分が差別する側に立つことは断じてないと信じている。
 この小説は、そんな我々に問いかける。
 では、この鏡に映っているのは、いったい誰なのだ、と。
 気がつけば、この小説に描かれている風景は、我々が住んでいるこの街にそっくりだ。我々は日常的に、この小説が持っている不安と隣り合わせている。
 有名な女優の息子が麻薬をやっていたことで逮捕されたというニュースを見たとき、無意識のうちに、我々はその女優に同情する。とんだ親不孝者の息子を待ったものだ。彼女はこれから大変だろう。仕事も減らされてしまうかもしれない……そんなことを、当たり前のように考える。しかし、そう考えている自分を差別者だとは思っていないのだ。
 若くて食えなかったころ、僕はパチンコ屋でバイトをした。そこのフロアマネージャーが、ある日突然、前日の売上金を持ったまま姿を消してしまった。そのマネージャーは、パチンコ屋の2階の1室を与えられ、妻と幼い息子とともに住んでいた。正社員の連中も、バイトの我々も、残された妻と息子に同情した。妻は夫が盗んだ金を返さなければならないだろうし、挙げ句の果てには部屋からも追い出されるだろう。そんなことを当然のように考えた。その考えが妙だとは、誰も思わなかった。なぜなら、我々は彼女たちに同情したのであって、悪いのは妻と子を置いて逃げたマネージャーだとちゃんとわかっているからだ。しかし僕たちの誰も、彼らには何もしてやれなかった。さらに僕は、彼女と息子がその後、どうなったのかまるで知らない。
 東野圭吾は、そんな我々を映す鏡を小説の中に埋め込んだ。
 ヨーコ・オノが俳優マーク・チャップマンを馘首にしたことが、本書を読み終えた後は、少し違って感じられる。
 重い小説だと思う。
 不思議なことがある。実際にジョン・レノンを殺害したほうのマーク・チャップマンは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を愛読していた。事実、彼はジョンを射殺した後、警官が現場に到着するまで、路上に腰を下ろして『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたのだという。
 ジョンの死から4ヵ月後、当時大統領だったロナルド・レーガンが狙撃されるという事件が起こった。逮捕された25歳の青年の愛読書が『ライ麦畑でつかまえて』だったことが明らかにされ、アメリカではその後、この小説が「有害図書」であるという烙印を押されることになったらしい。つまり『ライ麦畑でつかまえて』を愛読している若者を、アメリカ社会は不穏分子として分類するようになったのだ。
 同じような不思議なことは、ジョン・レノンの歌でも繰り返される。
 あの9・11テロが起こった後、アメリカでは「イマジン」が放送自粛の目に遭った。その理由は、驚いたことに「イマジン」が《国なんてないと想像してごらん。そうすれば、ありもしない国のために殺し合うこともないじゃないか》と歌っているからだそうだ。テロヘの報復を誓ったアメリカにとっては、戦意を喪失させるおそれをこの歌に感じたということらしい。
 アメリカだけに起こっていることではない。僕たちの周りでも、同じようなことがしょっちゅう起こっている。それを見なかったことにしたいだけなのだ。
 本書は、それを淡々と語る。良い、悪いではない。その自分の姿を『手紙』は僕たちに見せてくれている。
 小説は、最後の最後になって、また「イマジン」を主人公に突きつける。その変奏は、積み重ねられた物語と、現実の我々をジョイントする。