Junkyard

 

2016/12/07

馬銜 1982年秋季号

岡嶋二人 雑文

夜の馬 ── 岡嶋二人

 馬銜(はみ)というのは、馬の口に噛ませ、そこに繫いだ手綱を引いたり緩めたりすることで馬を制御するための道具です。その馬具の名称を持った「馬銜」という雑誌を、日本中央競馬会(JRA)が発行していました。(今も続いているのでしょうか?)
 競走馬を材に取った小説で江戸川乱歩賞をいただいたことで、デビューからしばらくは馬関連のエッセイ依頼を数多く受けました。この「夜の馬」などは、受賞式よりも前(!)に依頼があったのではないかと思います。

 
 
夜の馬
         岡嶋二人

 何年か前の話だ。
 その夜、仕事の調子が乗らなくて、私は気分を変えようと庭へ出た。家の前が四つ角になっている。今は水銀灯に変わっているが、当時は、ぼんやりした街灯が1本、立っていただけだった。大通りからはかなり離れていて、寂しいぐらいの道である。
 私の見ている前を、若者が3人、下卑た笑い声を立てながら通り過ぎた。異変が起こったのは、彼らが四つ角の中ほどまで差し掛かった時である。
「うわあっ」
 1人が大声を上げた。次の瞬間、3人は突き飛ばされるようにして、こちらへ逃げて来た。何が起こったのかわからなかった。通りの向こう側で、何かが動いたように感じて、私はその方を見た。ぎょっとして息が詰まった。
 街灯の下で、何やらとてつもなく大きなものが、揺らいだ。
 走って来た自動車が急ブレーキをかけ、身をよじるようにして道端に停まった。そのヘッドライトに一瞬、街灯の下の生き物が浮かび上がった。
 馬だった──。
 車を降りて来た運転手も、3人の若者も、そして私も、馬に目を取られたまま、動くことさえできなかった。信じられなかったのだ。夜の住宅街に、馬がいる?
 騒ぎを聞きつけて、見物人が集まって来た。誰かが110番をしたのだろう。近くの交番から、巡査が自転車でやって来た。パトカーまで呼ばれた。たちまち、夜の四つ角は、馬を遠巻きにする人々で埋まってしまった。
 だが、誰も、手を出せなかった。巡査が勇気を奮い、取り押さえようと進み出たか、馬がぶるんと首をひと振りしただけで、引き返して来てしまった。
 馬はかなり興奮しているようだった。大勢の人間に取り囲まれたせいもあるだろう。首をせわしなく振り動かし、時折、怒ったように鼻を鳴らす。前肢で小刻みにアスファルトを叩いていた。
 鞍も手綱もつけていない。毛布のような布を体の一部からひきずっているのが異様に見える。たぶん、夜具なのだろうと私は思った。
「乗馬クラブから逃げて来たのよ」
 誰かが言い、私もそうに違いないと思った。
 歩いて10分ほどのところに乗馬クラブがある。クラブの厩舎を抜け出し、夜の散少を楽しんだまでは良かったが、帰る道がわからなくなってしまったのさ、と隣の男が解説した。
 いや、それは違う、と私は思った。
 馬には帰巣本能というやつがある。ある学者の実験によれば、ほとんどの馬は10キロ、20キロ離れた場所に置き去りにされても、ちゃんと自分の馬房へ帰って来るものだという。まして、乗馬クラブまでは1キロもない1本道である。迷ったのではない。
 逆なのではないか、と私は考えた。
 この馬は、最近、乗馬クラブへ連れて来られたばかりなのではなかろうか。彼は、元の自分の厩舎へ帰ろうとしたのかも知れない。優しくしてくれた人、友だち──。彼らに会いたい一心で、厩舎を抜け出したのだ。ところが、少しも行かないうちに、見慣れぬ人間どもに取り囲まれてしまった。驚き、そして恐れているのは、むしろ、彼のほうだ。
 私は、勝手にそんなことを想像した。
 ようやく、乗馬クラブの人がやって釆た。なんのためらいもなく馬に近寄ると、彼は優しく声を掛け、掌で頸をたたいてやった。私には、馬のホッとする様子が見えた。安心したように首を伸ばし、彼の肩に鼻をすりつけたのである。
 ポックリ、ポックリと曳かれて行く馬の後ろ姿に、やっと人々は動き出した。
 ほんの1時間足らずの、夜の椿事だった。